台風19号が過ぎて

台風19号「ハギビス」の夜が明け、がらんどうになった青空のもと直売の卵を求めて二子新地まで歩く。直売所の棚は空で卵も野菜もなかった。ニュースで繰り返し報じられた高津区北見方はわたしが暮らす町で、直売所から少し下ったところ、それからわが家の隣の丁目まで床上浸水があった。水は自然に、あるいはポンプ車で汲み出したのかすでに引いており、街区は茶色いぬかるみで薄く覆われ、乾き始めた泥の匂いが風に乗って運ばれてくる。

最近更新されたハザードマップで、北見方は最大浸水3mの危険地域に指定されている。当夜、わが家の周囲一帯には緊急避難指示が発令されていたが、猫を連れて行くことができず二階に避難して凌ぐことにしたのが、正しい判断だったのかわからない。少し河寄りの地区では水没したマンションで人が亡くなったといい、心が痛む。一階に置いてあった作品やパソコン、そのほか細々とした家財を階上に運びながら、洪水になれば自家用車や、移動スタジオに改造するつもりでまだ何も手をつけていない中古バスは諦めるほかない、と一時は覚悟した。もとより堤防が破れれば、家もろとも流されてもおかしくない状況だった、と振り返って戦慄する。

普段は一日のほとんどを戸外で過ごしているうちの猫は、家に閉じ込められ半狂乱になっていた。部屋の隅に隠れておどおどと縮こまる彼をバスタオルで包み、腕に抱き寄せる。すると猫は少しだけ落ちついて、手脚を伸ばしてうつらうつらする。ふたたび暴風が屋根をきしませる音に驚いて目を覚まし、脱兎のごとく玄関まで走ってドアに爪を立てた。その繰り返し。眠ることもできず、階下に水が来ていないか洗面所やキッチンを見て回りながら、福島第一原発が爆発した夜のことを思いだしていた。

わずか数十センチの高低差で浸水を免れたわたしの家や、奇跡的に決壊しなかった堤防のことを考えながら、多摩川の土手に上がる。土手の上のサイクリング・ロードには物見高い人々が大勢集まって、スマートフォンで写真を撮ったり、めいめい考えにふけっていた。水位は数時間でみるみる下がっていったが、眼下に広がる赤茶けた水面を見渡して、このようにまなざす風景やわたしの生が極薄の現実に、紙一重の偶然によって存続していることを、妙に透徹した眼で観察する自分がいた。自分の命が人間の時空間と想像力をはるかに超えた、都市や民族の歴史の基底部にある、億年単位の地誌の上で頼りなくスピンする極小の現象である、ということを。

 

Typhoon Hagibis, Futakotamagawa, Tama river

Typhoon Hagibis, Futakotamagawa, Tama river

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