2005年【抜粋/修正版】

[12月29日(木)/2005] 無題

 

今日は今年最後の撮影、皇居のまわりを走って神谷町に向かう。
暮れの真昼、空ががらんとしている。

 

[12月26日(月)/2005] 声

品川での仕事が早く終わったので、夜、友だちのライブを聴きに行く(こんなふうに自分で時間を采配できる生活になったのだ、としみじみ嬉しい)。JPとTSKも来ていて、一緒のテーブルにつく。
一曲目を聴いて、その変化に少し驚かされた。声がもっとずっと深いところから繋がってきていて、半年かそれ以上の沈黙のあいだに、きっとそういう場所を通ってきたんだな、と思う。JPは少しダークになったね、と言っていたけれど、わたしは今の二人も好きだ。

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書くことから遠ざかりすぎると、記憶と呼べそうなものは何も残らない。

 

[12月20日(火)/2005] 無題

オペラの仕事を終えて、思い出したように風邪を引いてしまった。

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今年も art & riverbank 主催の企画展「depositors meeting」に参加します。

 

[11月14日(月)/2005] 無題

一昨日までの二日間は札幌での撮影。

昨日は平倉氏による「概念化」のワークショップ、越後妻有のメンバーでウィトゲンシュタインの精読を行う。想像力を広げる前に、そこに書かれたテクストの範囲に厳密に留まること、自分にとっては苦手な作業だったが、感覚を掴み始めると無性に楽しくなってきた。哲学を読むというのはこういうことだったのか!
次回のワークショップのテーマは「写真」でわたしの担当。限られた時間の中で何を伝え、共有できるか。

 

[11月9日(水)/2005] 無題

世界が息を潜め遠ざかっている、と感じることがあって、そんなときは自分も息を殺してじっとしている。
前触れとしての沈黙、うわべの平穏さ。

 

[11月3日(木)/2005] 無題

滞在先の大阪で、携帯電話が壊れてしまった。帰るまでどうすることもできない。
通信が途絶するということは、モノローグとダイアログの境界線が溶解することだ。

 

[10月31日(月)/2005] 無題

「わたし」を何者でもない者にするために移動するのだと、以前は思っていた。移動によって、否応なくそうさせられるのだ、本当のところは。
淀川をがぶがぶと浮き草が流されていく、遠い場所に来ているのだ、と、目の前の光景からも遠いところから、にじむように感覚している。わたしがわたし自身に追いつかないくらい早く、移ろっていけるならそれでいい。

 

[10月30日(日)/2005] 浮遊

撮影先の大阪から更新。来月5日までずっと、新大阪のプラットホームが見える部屋に滞在することになる。残念ながら今回はこちらの友人たちに会う時間はなさそう(退職後、改めて来阪します。その折に、また)。
多忙の中での移動は、水の中のダクトを通っていくみたいに淡く、いま、わたしはどこにもいないのだ、という感覚が伴う。

 

[10月17日(月)/2005] 水面下

長い潜水状態を経てずいぶん経つ。意識の遠いへりで、時折雨音が聞こえるらしい。やらなくてはならないことが本当にたくさんあり、弾丸のように進む。

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現在所属している広告写真の会社を、来月末で退社することに決まった。会社からは今後も多少は依頼を受けることになるが、これからはひとりでやっていく

 

[10月2日(日)/2005] 無題

午後から撮影、暑すぎてなにも見えない。身体が動かない。

 

[9月27日(月)/2005] 無題

夜、『ヘンゼルとグレーテル』の打ち合わせ。恊働することは、ひとや自分の時間の大切さ、生活の重さを一部分共有するということだ。だから、自分一人でものを作るのとは、時間とお金に対しての意識が違ってくる。物理的、時間的制限と作り手たちが超えなくてはならない仕事の質について、よく認識する必要がある

 

[9月25日(月)/2005] 無題

すべてが不確定であり、ひとつの道筋からよその道筋へと大きくカーヴしていくこと、その悦び。ゆっくりと手のひらに還ってくる。
不安は片時も身を離れたことがない、なぜならそれはわたしたちの眼でもあり、生まれつきの傷のように、ずっと開きつづけているからだ。

 

[9月24日(日)/2005] 砂床

石内都さんの写真を見るため近美へ。7月末に行われたアーティスト・トークが映像になっていて、肉声を注意深く聴く。
35mmのネガから大伸ばしされたプリントの前に立ちながら、この作家は、モノクロームの生理を、撮る過程からいかにも自然に感じ続けてきた人なのだと思った。「織物のような」粒子のざわめきが、対象をその表面そのものへと、美醜のほんの僅かな手前で押しとどめている。それでももちろん、クローズアップの手足であり、喉首の傷痕であり、濃い陰影を含んだ壁面であるそれらが、かたちや意味を失って抽象化されているわけではない(だからアレ・ブレとは全然関係ない)。そうしたことの見えないボーダーラインに、近づけばコロイド状に雲散してしまう、イメージの鏡が立っている。そういう場所にいなければ、いまモノクロームで撮る必然性なんてあまりないのだろう。

 

[9月18日(日)/2005] まずは柔軟体操

日中は『ヘンゼルとグレーテル』のための撮影、新宿を歩き回る。こういう街は、最初の30分くらいが勝負だと思った。長く歩くうちに何もかもが写真の括弧で括られてしまい、消費されてしまった、と感じるから(この街はカメラをぶら下げている連中が異様に多いのが腹立たしい。この世界に撮影者は一人で充分だ)。

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夕方から平倉圭、さとうゆきの二人と合流して、三人だけのワークショップを開く。第一回目の今日は、さとうさんの担当。
身体や言葉を使ったワークショップは初めてだったので、何もかもが新しい体験だった。ギランバレー症候群から快復して以来、はじめて自分の身体と対話できた気がする。それにしても、『Aria』以後言葉から遠ざかっていたせいか、即興がなまくらになっていて困った。これから、いろいろなものを少しずつ、取り戻さなくてはならない。

 

[9月15日(木)/2005] 無題

何かが本当に終わるということはない。イメージが死ぬことと、それそのものが潰えるということは、決して同じではない。

 

[9月5日(月)/2005] 地名から

成瀬巳喜男の『めし』をBSで観る。小津のプラチナのような遠さはないけれど、私たちが棄てた生活の一様式が、フィルムの表層に生々しく定着されている。50年代のフィルムに浮かび上がる地名には、いつもぎくりとさせられる。今も在り、今それが無いということの、空洞のような明らかさ。風景と表情は永遠に退場しつづけ、何も蓄積せず、進歩とは見せかけの幻に過ぎないということ、砂の総体としての砂という名、その土地の名。

 

[8月28日(日)/2005] Hansel und Gretel

朝、新宿で菅尾友君のオペラ『ヘンゼルとグレーテル』の打ち合わせ、振り付けの不動さんに初めてお目にかかる。
菅尾君がエファーディング他のDVDを持ってきてくれたので、家に帰ってから観てみる。子供向けのオペラだけあって、音楽はいやと言うほどメロディアスで過度に劇的。写真が介入したときにどうなるか不安だ。

 

[8月13日(土)/2005] Pixelphobia

EOS-D20を購入。デジタルと銀塩に関する議論は根本的に無意味だと思うけれど、少なくとも道具の違いは色々な影響を及ぼす。意識を拡散させるツールとしてのCCD、怯えながら撮ること。背面のディスプレイを、そそくさと覗き込まないこと(あの動作はいかにも卑しい)。

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来年の越後妻有に向けて、さとう平倉両氏と三人で、ひとりずつ小さなワークショップを開くことになった。まずはお互いを知るために。

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15日のNHK『視点・論点』に、恩師の写真史家・金子隆一さんが登場するとのこと。

 

[8月9日(火)/2005] 写真を〈読む〉視点

先月末、青弓社から小林美香さんの『写真を〈読む〉視点 写真叢書』が上梓された。膨大な量のイメージが流通する現代に、みる人と写真との関係を7つの視点から取り持つ書物です。
表紙はわたしの写真です。当初表紙の印刷にミスがあり、再刷前の本をお持ちの方は、青弓社に連絡すると表紙を交換してくれます。

 

[8月8日(月)/2005] Terrain, unknown

何も見えず、何も聞こえない日々が、ずっとつづいている。ひどい多忙のためか、暑さのせいなのか、判断することができない。

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昼休みを延長して、招待状をいただいていた、アートフェア東京に顔を出す。一年半ぶりにサードギャラリーの綾さんにお目にかかり、石内都さんのオリジナルプリントを見せていただく。
今回のアートフェア東京は、現代アートから古美術までごちゃまぜに出品されていて、美術館では絶対にあり得ない配置がけっこう楽しかった。
エディションの振り方や値段、フレームの体裁など、作品の外側の部分ではあるが、いちおうの参考になった。
そろそろまた関西に行きたい。流れを取り戻すために。

[追記]

先月末は小林美香さんのワークショップに参加。写真家の藤部明子さんに、初めてお目に掛かった。WS終了後、お酒を飲みながら鳥原学さんに痛烈な批判(作品ではなくて生き方について)をいただく。(でも、いったい何が生をこんなに不自由にしているのか、はっきりと特定する事ができない。それが何か、おそろしく馬鹿馬鹿しい事情の群れであるにしても。)

その翌日、横浜でSKRBさんのダゲレオタイプ撮影と「記憶のインタビュー」の試行、一日時間を割いていただく。横浜美術館の関さんにも、久しぶりにお会いできた。とにかく、今からでもプロセスを共有していく方法を模索しなくては。

[追記2]

5日の深夜、越後妻有『真夏の10days』のため新潟に入った。一日目は恒久設置された作品を観てまわり、この場所で何ができるのか、少しずつ探りながら歩く。二日目はさとうゆきさんのワークショップ。撮影後、浦田地区の「歩く会」に参加して、色々な方にお会いした。
越後妻有のアート事業はすでに各地域で認知されつつあるが、「アート」以前に色々な力を試される場所だと感じ、運営側ではなくあくまで作家が主体になって、地域や作品を観る人との関係性を築いていく必要があると感じた。
越後妻有は、草木の美しさと からだの底に差し込むような孤独感の混淆が、今まで訪れたどの土地とも異なっていて、わたしの中に用意されていたどんな風景にも結びつかない場所だった。まずはその見知らぬ土地へ、わたし自身を接続する方法から探っていこう。

 

[7月24日(日)/2005] 無題

イギリスから帰国中の南部君に会い、向こうで作った作品を見せてもらう(彼に会うのは二年半ぶりか。わたしにはどうやら懐かしさの感覚が欠落しているので、時間の経過がよくわからない)。
他の学生たちの作品を観ながら、写真のイメージそのものの強度(広告やファッション写真ですら、そうした強さによって支えられている)とは別個に、あらゆる関係性を等価にしてしまうような眼差しの向け方/向けられ方があって、感覚の糸がそこに向かって伸びていくかどうかが、その写真家の可能性を決めてしまうと思った。

 

[7月23日(土)/2005] 蓮/寺

薄暮、大きな蓮がびっしり浮いた水上を、ばらばらと風が渡ってくる。スレート色した空とブルーグリーンのカーディガン(なぜいま、眼の覚めるようなサンゴ色を思い出すのだろう?)。
日々をこなしていき、渡り歩いていくうちに、色々なものをだめにしてしまう。

 

[7月20日(水)/2005] 絵画の発生

行き帰りの電車で、『美術史の7つの顔』(小林康夫・編、未来社)を読む。平倉圭は、絵画における視覚体験にどこまでも固執しながら、制作のプロセスを順に読み解くことによって、静止したイメージに時間性を与えることに成功している。以前から、ピカソの<アヴィニョンの娘たち>について、同一の画面にまったく異なる時間が同居しているように見え、同じ時点の同じ描き手がどうしてこんな風に別人のように描くことができるのか不思議でならなかった。
平倉のふたつの論文は、画家が平面上で試行錯誤をくり返し、<現実>への不可能な接近を、プロセスの中で見出された突然の飛躍によって解決していくさまを、平明な文章で明らかにしている。絵画の時間、とでも呼ぶべき分厚い時間の層がイメージを輝かせ、「見られたもの」から、それ自身が強固な現実として新しく見出されるものへと、絵画を運んでいく。著者自身が「描く人」であり、手が筆を、絵の具を知っていることの強さが、テクストを支えていると感じた。

 

[7月17日(日)/2005] 無題

雲の切れ目をうかがいながら、父のダゲレオタイプ撮影。少々濃度が低いが、今回も成功。毎回、沃化処理をストップするタイミングを見極めるのがいちばんむずかしい。

 

[7月10日(日)/2005] 始動

8×10のダゲレオタイプが、ようやく成功する。銀板を限界まで研磨し(指がぜんぶ攣ったところであきらめた)、ヨウ素も丸ごと一瓶投入して、沃化の反応速度を早めたのが良かった。太陽光で像がはっきりと現像されてくるのを確認して、思わず声を上げてしまう。一枚が成功すると、作り続ける力が沸いてくる。とりあえず一人で祝杯。
午後は新しいカラーのシリーズ(今度の仕事は相当奥行きのあるシリーズになるはずで、ある程度まとまった時点で本の形で発表したいと思っている)に着手するため、羽田へ。新しくなった空港の第二ターミナルは、思ったとおり刺激に満ちた場所。先月導入したMamiya645は、わたしの呼吸にぴったりついてくる。嬉しくなって、フィルムがなくなるまでひたすら撮る。今日は手を動かせて、本当に久しぶりに地上に出たような気分。

 

[7月9日(土)/2005] イマージュの少し手前

三越のライオンの前でYと待ち合わせ、ギャラリー小柳へ。鈴木理策さんの写真は、感覚すること──匂い、風の動き、音。陽だまりの温度、離れた向こう側の水の、日陰のつめたさ。靴の中の湿り気と手の平の熱さ──と撮ることが、分かちがたくひとつになっている。眼よりも少し手前に、諸感覚のやわらかい先触れがあって、それが、観ることと写真を「そこ」まで運んでいく。

 

[6月28日(火)/2005] オペラ/写真

菅尾友演出のオペラに参加することになった。フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』、新国立劇場で12月に行われる。

 

[6月27日(月)/2005] William Eggleston, Winston Eggleston

先週末、小林美香さん、竹内万里子さんと私の三人で、ウィリアム・エグルストン氏、ウィンストン・エグルストン氏親子にお会いする機会をいただいた。作品を非常に丁寧に見ていただき(作品だけが語ることができるのだということ、このときほど、それを痛感したことはなかった)、ゲイリー・ウィノグランドとグレン・グールドとセックスについて話し、ウォッカと日本酒をたくさん飲んだ。何か大きくて温かい感情が、静かな語らいの後にいつまでも残っていて、それを上手く言葉にすることができない。
日曜日は、応募したものの選に漏れていたエグルストン氏のワークショップを、いろいろな方のご厚意で見学することができた。
作り続けていくための核のようなこの二日間を、わたしはずっと忘れないだろう。

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日曜日、小林さんに『写真を〈読む〉視点』のゲラを見せてもらった。表紙にわたしの鏡の写真を使っていただいたのが、わたし自身が考えもしなかった新鮮なアイデアで装丁されていた。自分の作品の意図が、お会いしたこともない装丁家にダイレクトに読み取ってもらえたと感じて、嬉しく思う。

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先週まで雑誌の撮影のため、上海に滞在していた。耐え難い蒸し暑さと、生のままあふれ出す人間と風景の群れ。自分は東京で欲望と生命力を持て余しているのかもしれない、と思った。

 

[6月11日(土)/2005] summa summarum

至るところ湿気だらけ。こうなると一日中、怒ったような気分で過ごすことになる。

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昼過ぎまで銀板磨き。救いのない気分を変えたくて、夕方、港にあるアウトレット・モールに服を買いに出かけるが、買いたいものは何もなし。珈琲だけ飲んで、マルグリット・デュラスの『アガタ』を観るため東中野へ。誰かに会いそうだと思っていたら、早稲芸のIMMRさんにお会いした。
本当に何も見えない、何も聞こえない映画。言葉の道を、イメージによらない言葉の開示を、わたしたちの身体は辿ることが出来ない。デュラスの、ヤン・アンドレア(名前のなんという匿名性)の声が背後から投げつけられる、その声の震え、あるいは湿り気によって時制が崩壊する。鏡像としての、相互に鏡像としてのスクリーン。こうして物語性は行き場を失って剥がれ落ちていく、おそらくわたしたちは、アガタの出立に先回りすることは出来ないだろう。本当の痛みがまだやってこないという状態(そしてそれは実際にやってこないだろう、なぜならそれは他人のものだからだ)、その抗いがたい現在性のただ中で、わたしたちは言葉の、とりわけダイアローグの発生に立ち会うことになる。

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クローズアップで顔を扱うとき、フレームによって頭部にトリミングを与えてはならない。わたしは、総体としての顔(そういう言い方があるとして)に向き合うべきだ。

 

[6月9日(木)/2005] 無題

体調を崩したため、会社を早退して(しかし夕方に帰ることを早退と言うのはばかげている)何ヶ月かぶりに光のある時間に帰路に就く。 大井町線の線路は南西に弧を描いて伸びていて、日没が地平線の縁を静かに浸していくのを、いつまでも追うことができる。
薄いバイオレットの際で絹雲が輝くあたり、そこから細かいガラスの粒を弾くように、不意にきらきらした音階が重なりあって漂ってくる。それは実際にわずかな質量を持って耳に届き、息をのんで立っていなくてはならないのだった、その撥弦楽器に似た音がつなぐ数秒のあいだ、まるで永遠のように。

わたしたちはたぶん、自身にとって決定的に重要なものは何か、よく知っている。しかし問題は、その重要な何かを失っても──多くの場合、それは積極的な選択によって、またはちょっとした怠惰によってなされる──ごく不自由なく生を繋いでいける(どのような意味で?)ということ、あるいはそれを忘却する方が正しいとすら思えてしまうことにある。そして、その重要な何かは、時とともに意識の底部に沈みいくつもの暗い湖面を形づくっていく。その鈍い鏡に映るイメージによっては、それがなぜ重要だったのか、だれにとって重要だったのかさえも、やがて思い出せなくなるだろう。移住はそのようにして、完全に遂げられるのだ。

 

[6月7日(火)/2005] 無題

ひとつの可能性の非選択状態としてある生などない。
わたしがいま選ぶということ、見えない前に差し伸べた手で、選び取り、ついでわたしはそれを目にする。

 

[5月22日(日)/2005] 無題

午後、鈴木理策さんの事務所にお邪魔する(入院をはさんでずいぶん久しぶりになってしまった)。
村上友重さんにも初めてお目にかかった。

 

[5月15日(日)/2005] Depth

8×10銀板がなかなかうまく磨けない。自作のバフも、持ち手を改良したつもりがかえって使いにくくしてしまったようだ。なかなか撮影に踏み込めず予定だけが遅れていく。時間が足りなすぎる。

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両の眼で向き合うとき、世界は驚くべき奥行きを孕んで立ち上がってくる。ファインダーを覗くことは片方の眼を塞ぐことだ、そうして、どうやって奥行きを伝達できるだろうか?完全に矛盾した方法で、写真は、まさに奥行きを問題にしているのだということを、どうやって伝えられるだろうか。

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Mamiya645とレンズ一式を購入。簒奪された生の時間で、全力で戦うこと。

 

[5月14日(土)/2005] 羽─田

城南島、友人の平倉圭が参加する『Variations on a Silence』展へ。 埋立地に再設計されたリサイクル工場が、この展覧会の舞台である。大きく弧を描いて上昇する道路を辿って、人工の島を東端まで走ると、前触れもなく開けた眺望──耐塩性の植物が広々とした空き地を覆い、海を挟んで遠くの彼岸に、飛行機の待機レーンが見える──の手前に、現代的な相貌の工場が立っていた。時折、轟音とともに頭上をジェット機が過ぎり、巨大で実体のない影を落としながら、はすかいに高度を落としていく。ここまでの道のりと、着陸を繰り返す飛行機の気配に血のざわめきを感じながら、工場内部に入る。
近藤一弥の作品は、テクストとイメージが周囲を同時的に取り込みながら、重層的なリズムを孕んでいくのが興味深い(音=振動が触覚的に使用されていて、反復に主眼をおいたインスタレーションが結末の方へ、あるいは過去の方へずれ込んでいくのを、効果的に防いでいる)。
平倉圭の作品は、2張のスクリーンに映し出された重機(水戸にある別の工場で(※)撮られた映像で、製品を分解する機械の反復運動を、定位置から撮っている)の映像・音と、もう1張りの、タイプされるテクストの映像が組み合わされたもの。テクストが鋭い分、強度の足りない映像が背景として脱落してしまうと感じた(もちろん、映像のダイナミズムについてではない。反復的な視覚とその表面を漂っていくテクストを、強制的にバインドする何らかの装置が必要だと思った)。
これだけ圧倒的な場所──海/工場/空港がそれぞれ固有の振幅を重ねている──で展示を観るのは初めての体験。何とか時間を作って、もう一度観に行ければいいのだけれど。

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夕方から日没まで銀板を磨く準備。夜、ユーロスペースで『永遠のハバナ』のレイト・ショーを観る。映像の距離は良いけれど音が邪魔。ここに登場する人々から言葉をそぐのは失敗だと思うのだが。

 

[5月4日(水)/2005] 無題

季節だけがライオンのように過ぎていく。わたしは損ないつづける。

 

[5月1日(金)/2005] 無題

川崎市民ミュージアム、『時代を切り開くまなざし-木村伊兵衛写真賞の30年-』展。

 

[4月29日(金)/2005] いよいよ

向島の鍍金工場に、8x10inchのダゲレオタイプ銀板を受け取りに行く。工場の方でいろいろな工夫をしてもらった結果、今までで一番状態のいいプレートに仕上がった。これでいよいよ、新しいシリーズに着手できる。
帰りがけに、東京写真美術館で『写真はものの見方をどのように変えてきたか』展を観る。ダゲレオタイプ、カロタイプを初め写真黎明期の作品と技術史が一望できる展示。
タルボットの『自然の鉛筆』のオリジナル(!)も展示されているが、170年の時を経て画像がすっかり色あせてしまっている(当時の定着技術に問題があったのだろうか?)。一方で、時間を経たダゲレオタイプは、銀表面の酸化が進み、新しいものより像がずっと堅牢になっていく。わたしたちが写真に対して抱く、ロマン主義的な認識は、画像がフェードしていかないダゲレオタイプには当てはまらない。それは残りつづけ<かつて>を現在に差し戻しつづけるのだ。

 

[4月24日(日)/2005] 無題

予兆を、わたしたちは決して回避することができない。というのも、起こりうる/起こりつつあること、それを読み取ることは、すでにその選択状態としてある、ということだからだ。わたしたちはそこへ落ちていく、半ば眠りの中で、半ばわたしたち自身の意思によって、もはや何事も、誰の手によっても、変更されえないその結末に向かって。
眼たちが遅れて到着する、納屋の上の彗星を追って。果実がもがれている、たったいま、訪問に合わせて──あなたは見に行く、それだけだ。

 

[4月23日(土)/2005] 無題

ダゲレオタイプ銀板の磨きを手伝ってもらうため、TSKが通うアクセサリー工房にお邪魔する。御徒町は宝飾の町らしい。通りがかる店の軒先に、金や銀、プラチナの相場が表示されていておもしろい。
早速TSKに磨いてもらうが、銀はやわらかい金属のため、鍍金後の機械研磨では表面が剥げてしまうことが分かった。親方のNHさんが、仕事の手を休めていろいろな研磨剤や磨き方の工夫を教えてくださった(NHさん、TSK、本当に参考になりました。ありがとうございました)。

夕方からは、世田谷美術館『ウナセラ・ディ・トーキョー』のオープニング。竹内さんに誘っていただき、私も内覧会に便乗させていただいた。
東京の昔の(昔の、という言葉は本当は写真にはそぐわないけれど)写真を観ていて、かつて、東京には孤独が細かい砂つぶのように積っていて、目に見えない砂塵のように街路を包んでいたのだな、と思う。
順路をひと回りすると、竹内さんがギャラリーショップの椅子に座り込んでいた。わたしも見終わってどっと疲れた。
会場では鳥原学さんと阿古真理さんにもお会いして、駅までの道々、色々なお話を伺う。

 

[4月22日(金)/2005] 無題

真夜中の窓のへりを白い大きな鳥が掠めていき、胸の奥に悪い予感だけをどさり、と落としてたちまち飛び去る。あるいは幻だったかも知れない。群青の中天で月がどんよりと溶けはじめ、プリズム色した暈に金星が近づいているのが、今しも受精したばかりの卵子を思わせる。
予兆によってイメージが分節する。想像することが以後へと伸びる手のように、わたしに先立って世界を選び取っていくのだとしたら、わたしの想像力はわたし自身に対して責任がある。
張り巡らされた物語的なものの背後に回り込み、じっと窺うこと。
その番号は世界の始まりと同じくらい古く、市外局番だけが、黄金の輪のように、記憶の水際で宙吊りのまま輝いている。

 

[4月10日(日)/2005] ヴェロニカ

午前中、二種類の鍍金法による銀板で撮影を行う。やはり、工場で粗研磨の精度をあげてもらう必要がありそう(鍍金の違いによる差はよく分からない)。撮影した顔のクローズアップは、ぼんやりして、聖骸布に浮かび上がった影みたいだ。

 

[4月3日(日)/2005] April

サンプルの銀板を研磨。キズが多くて、以前の三倍くらい時間がかかってしまう。

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昨晩は三鷹のJP、TSK邸で友人たちに会い、クスクスを御馳走になる。男女が何組も仲良く並んでいるのが楽しくて(再来月、母になるひともいる)、幸福な気持ちに浸されたままつい飲みすぎてしまう。
朝目覚めると、コートの背中一面にコデマリの花びらやハコベの若葉がついていた。どうやらどこかの茂みで眠るか転んだかしたらしいけれど、どうやっても思い出せない。

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われわれは、人間の眼を受容体としては見ていない。君が眼を見るとき、君は、そこから外へ出る何ものかを見ている。君は眼の眼差しを見ているのだ。 (ウィトゲンシュタイン、『心理学の哲学』第一巻)

 

[3月21日(月)/2005] 無題

二つの湾のはざまで、わたしは自分の居場所を、遠い浜の光のまたたきと移動によって測らなくてはならない。
ばら色のヴェイルが西の縁にたくし込まれ、みるまに淡い群青が上方から注がれる。鴎が右手から飛び立ち、足に絡んだビニルを振りほどいて、ふたたび自由になって空に吸われていく。
表層で起こりつつあること、また奥底で動くもう一つの意識、所詮そのどちらも言葉でなぞることはできない。ただこの一日を囲うことはできる、逃亡の身振り(だが再び家路に就くだろう、往路を辿って/潰れた円を描いて)によって、予兆によって、何か致命的な浪費によって。

 

[3月12日(土)/2005] 向島

ダゲレオタイプ用銀板のサンプルを受け取るため、向島の鍍金工場に行く。電話では愛想のない親爺だな、と思っていたら、路地の入り口に立って、どうやらわたしの到着を待っていてくれた様子。前回の作品を見ていただき、事前のニッケル鍍金の有無、磨きの程度などをもう一度検討してから、本番の依頼をすることになった。
用事を済ませてから、この界隈で暮らしている友だちに会う。美味しい蕎麦屋と百花園に連れて行ってもらい、現代美術製作所で展示を観る。この半年、「休日」という感覚を忘れていた。

 

[3月11日(金)/2005] Dryness

数歩先が見えない程の濃霧の中、夜のF..橋を渡る。
(ヴェニス、イストラ、霧の中の鏡…)
二つの霧の沃野のあいだに、乾いた黄土の州境が敷かれている。悲しみと涙のあいだに。

 

[3月5日(日)/2005] 灯台

入院中もふだんの生も、今は病中なので、と括弧書きすることばがあるかないかの違いしかない。

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グリーンの精巧な甲虫のような自動車に乗って(この機械の操作は半ば眠りに似ている)、半島の南へ旅する。
がらがらと音を立てて流れ去る視野の先端で、空の一点がどんよりと輝き出す。見えない透明な気流に崖上の灯台がけたたましく共鳴をはじめる。乳白の空中で鳥たちが風に煽られ、一羽、一羽と斜面に墜ちていく。望遠鏡に硬貨を一枚押し込むと、しばらくのあいだ遥か遠くで波に翻弄されるタグボートが映し出され、かちゃん、というかすかな音とともに目蓋が落ち、何も見えなくなる。

 

[2月12日(土)/2005] 無題

Uが快気祝いを画策してくれ、友人たちと中目黒でおいしい羊を食べる。

 

[2月11日(金)/2005] 無題

渋谷bunkamuraの『地球を生きる子どもたち』展を観に行った。子供の写真、というシンプルな主題に基づきながら、そこで体験されるのはまさに写真史そのものだ。新聞記者の報道写真からブレッソンのスナップショットまで、ありとあらゆる種類の写真をすべて等価なものとして提示するという、作品の選定者の強い意志と愛がそこにある。
たくさんの来場者がいるのに、だれも言葉を発せず会場はしんと静まり返っていた。沈黙の強さ。

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夕方から日吉の友人たちに会う。全員がずっと写真に携わり続けているのがうれしく、心強い。

 

[2月3日(木)/2005] 無題

話す人/聞く人を卑しめるだけの言葉を聞いてしまったら、それをどこに棄てたらいいだろう?

 

[1月23日(日)/2005] 無題

水気を孕んだ底冷えが、部屋の四隅を浸している。窓の外で、羽のような雪片が翻りはじめる。

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午後、目黒庭園美術館にて田原桂一展の最終日。

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自分やひとの生を、日常的な実践を通してほんの少しでも更新し得ないのなら、ものを作る意味はない。

 

[1月20日(木)/2005] 一月

あの三月、あの五月、そう呼び起こすことはできても、一月は白い空白のまま、いつでも静まり返っている。

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橋口譲二+星野博美の『対話の教室』を読み始める。東京とインドで行われた、10代の男女を対象にしたワークショップの記録。
それにしても、カースト制度や家庭環境の差が大きいコミュニティーでこうした試みを行うとは、なんという勇気だろう?ここでは言葉・写真が漠然と(または政治的に)補い合う関係は見られず、対話(=ことばによって関係を開いていくこと)と写真が、おなじ高さで、強く太く往還している。それも何か特殊な方法ではなく、相手に向かってまっすぐまなざしと問いかけを投げかけるという、簡素な(でも手放しでは絶対にできない)やり方で、写真と言葉の背後に圧倒的な強度が与えられているのだ。
本のところどころに、ワークショップの期間中撮影されたポートレイトが載っていて、静かで熱っぽい気を放っている。
[1月19日(水)/2005] アジェ!

今日も歩くトレーニングと、横浜美術館でワークショップの打ち合わせ。詳細はまだ定まっていないけれど、少しずつ、予想もしなかった方向に展開していきそう。
帰りがけに、デュシャン展をゆっくり見て回る(見る速度が歩く速度に制約を受ける、という状況は思いがけず楽しい)。美術館の中で、レディ・メイドは完全に沈黙している。タブローとガラスの反射の背後に漂う、普遍的な幸福感の跡?みたいなもの。
常設展の写真室ではアジェの1973年版のプリントが展示されている。その中に、アジェ自身がガラスに映りこんでいる一枚を見つけ、嬉しくて声を上げてしまう。

 

[1月17日(月)/2005] 冬の日

リハビリ用の杖をついて、今日初めて外に出た。
真昼の水路にこんなにも真白な光が溢れ、奥行きと運動がまるで新しい世界の書割のように、冬ざれの辻々に充満している。

 

[1月16日(日)/2005] 復調

過労から末梢神経の病気を患い、年末から入院生活を送っていた。
罹ったのは突発的に四肢が麻痺するギランバレー症候群という病気で、10万人に一人くらいの割合でしか発生しない、かなり珍しいものらしい。入院した当初は立ち上がることもできず、手の指が丸まったまま動かないために、スプーンを持ち上げるのも困難な有様だった。病状が重い場合、呼吸が止まって死ぬこともあると聞かされたが、幸い比較的軽症だったことと、最新の治療を早期に受けることができたため、麻痺は腕とひざあたりまで進行して止まり、その後快復も順調に進んでいる。
発病する前、非常な多忙の中で、身体が切り離されて自分の頭部だけが浮遊しているような、奇妙な感覚にとらわれていたのを覚えている。今では、その感覚が形をとって病気になり、身体が表現してきたのだと思っている。
残り一週間ほどで仕事に復帰することになるが、療養中自分の生活全般について、本当に色々なことを考えさせられた。

忙しい中何度もお見舞いに訪れてくれた友人たちと家族に、また最善の方法で治療してくださったTKN先生、看護士の方々に心から感謝します。

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