December 2004

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[12月12日(日)/2004] 無題 午前中から、横浜美術館でダゲレオタイプのテスト。アトリエ担当のSKさん、SKRBさんに、磨きから定着までひととおりの過程を体験していただいた。 生憎の天気で露光時間が20分にも達したが、SKさんは樹木に寄りかかって微動だにしない。暗箱の底に、ある生の純粋な累積、時間の束を凝集すること。他者の生の時間を、運動を奪い去ること、その行為のなんという重さ。   [12月11日(土)/2004] 無題 わたしの手や足だけが、よくわからない時間の経過を渡っていく。意識の芯はほとんど眠っているんじゃないか、と思う。   [12月5日(日)/2004] 写真の場所 目覚めて庭の窓を開けると、風に千切られた植え込みが痛々しい葉うらを見せており、ねっとりと春の陽気を孕んだ空気が部屋に流れ込む。乱流の裂れが上層からふきつけ、まるで新しくなった地上をざらざらと洗っていく。 光の爆発のただ中で今やすべてが等しく、わたしたちは眼で触れ世界をまさぐる。   [12月1日(水)/2004] 圧搾 維持のための制度が個々の生をじわじわと圧搾していき、また、システム全体に私たち自身が深く加担している、という事実。生の時間は維持の必要条件でも逆接でも決してなく、よく似た別種の問題なのだ。   [11月28日(日)/2004] 無題 同志社大での写真研究会に参加するため、週末は京都へ。想像を超える混雑の中、市内に宿が見つからず大原に逗留する。思いのほかいい宿で、たくさんの豆腐を食べ、夜道を辿って寂光院に水琴窟を聴きに行く。 研究会の終了後、佐藤守弘さんのご自宅にお邪魔していろいろな素敵なものを見せていただく(ありがとうございました)。ティンタイプの後処理と、アンブロタイプについて調べなくては。 – – – 本日の小林美香さんによるデジオ(インターネット上で配信されるラジオ)に出演しました。 http://www.think-photo.net/mika/dedio/ 自分の話し方は、語尾が聞き取りづらい。   [11月20日(土)/2004] すすはらい 長いブランクをおいて、路上でのスナップショット(そろそろ別の呼称を考えなくては)を再開、思いつきでパノラマ装置を使ってみる。眼に手足がついていかず、収穫はまったくなし。   [11月16日(火)/2004] 無題 「見ないこと」は「見ること」の非選択状態ではない。メルロ=ポンティ?   [11月15日(月)/2004] 蝶 『牛腸茂雄作品集成』(共同通信社、2004)を買う。距離のなんという怖さ。腸-gutのように厳しく、薄く黄色くはりわたされたまなざし。 – – – 書くのを怠るべきじゃない、抵抗の手段としての記入、たとえ力尽きたピリオドひとつであっても。 一日に16時間も労働していて、眠りは白昼の海を越える蝶のようにあやうい。   [11月14日(日)/2004] 無題 松涛美術館、安井仲治。 痕跡を痕跡の意味として捉えるとき(単なる事実、表面/surfaceとしての痕跡ではなく)、そこに現在との照応関係がある。かつてそこにあったものと関係性を結びうるかどうか、きわめて微妙なポジションに立たされるとき「不安」があり、その不安の中で意味が膨張を始めるのであって、何かが完全に整理されてしまった後、こと切れてしまった後ではそういうことは起こりにくい。 私がグラフィカルな仕事(写真における)に一様な不毛さを見るのは、不確かさから生じる対話によって過去と現在の関係性を取り持つ、写真のもっとも重要な機能が、無造作にそぎ落とされていると感じるからだ。 たとえば60年という時間、たかだか人一人の生にも満たない時間のなかに、驚くべき断絶がある。コンポジションはその断絶を経てすっかり色あせてしまい、サーカスのコンタクト・シート、不確実なまなざしを捉えた数枚の肖像だけが、出会いの不安の中で、今、わたしたちに向かって対話の眼を開くだろう。   [10月18日(日)/2004] 無題 よく冷えて乾いた空気に気持ちが軽い。 午前中、横浜美術館へ。階下で子供たちの歓声が響き、壁に古代の稲穂が吊してある室内で、市民のアトリエのSKRBさん(岩手の、モリオカの、美しい夏草のこと。)、SKさん(デリダの話)にお会いする。イメージと言葉の周辺で、あたらしい試みを共有できればいいと思う。 夜からはart & river bankにて横浜写真会議。二ヶ月参加しない間にずいぶん人が増えた。どうやって対話の場を形成していくか、考える必要がありそう。   [10月12日(火)/2004] Unknown Rivers 遅い時間に仕事を終え、いくら待っても電車が来ないので、歩いて雨に煙るTM川を渡る。 (くり返し対岸へと渡りつづけた。どこへ行くにも、ひとつの場所を除いては。あれはなんという致命的な南進だったろうか、方角も知らずに。) 嵐も過ぎ去ったというのに、ざあざあと瀬音を立てて濁った水が奔っている。 (霧のメコン、泥のメコン……、そんなふうに呟きながら。 ゴングル、ゴングラ、……あれはちょうど正午で、オールド・ディストリクトの河岸の畔を、 島のように豪奢な浮きくさの一塊も運ばれていくのだった、)   [10月11日(月)/2004] その名にちなんで 昨晩は遅くまで友人たちと飲む。思いがけず話題に上ったサーカスのイメージが、夜明け前の鈍い夢のなかに滑り込む。 – – – E・ホッファー『現代という時代の気質』、ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』を読み始める。ラヒリの方は面白いかどうかまだ分からない。書き手が、生活のなかに置かれたひとつひとつの現実(それらはなんて強靱なんだろう)を捉えようとしているのは確か。 ベンガルのどこかで機関車が脱線する場面まで読み、かつてラジャスタンで見た交通事故を想い出す(砂嵐の去った午さがり、ハイウェイの傍らで幼児が死にかけていた。鉄鍋に油の灼ける音と甘たるい揚げ菓子の匂いが、茶屋の軒下からあたり一面に漂いだしていた……)。 インド人が自らの郷里に向けるまなざしの静けさには、いつも、新鮮な驚きがある。わたしたち異邦人は(そして、わたしたちは互いに異邦人なのだった、)その静寂に身を移すことはできない。永遠に。 –…