いずれの場合にも、賭されているのは、見てのとおり、縁取りと開かれの関係、眼窩と穴の関係である。何ものかが眼差しのまわりにまとわりついている。タブローが形象のまわりに組織化される、というだけでは十分ではない。さらに、この形象がその眼差しのまわりに──その幻視(ヴィジョン)、その千里眼(ヴォワイヤンス)のまわりに組織化されるのでなければならない。眼差しには何が見えているのか、眼差しが見ている、もしくはまなざしているはずのものとは何か。これこそがもちろん問題の核心である。
ジャン=リュック・ナンシー『肖像の眼差し』岡田温史・長友文史=訳, 人文書院, 2004.
唯一の相違は、他の人たちがはっきりしないまぼろしに満足するのに対し──私はいつも顔全体を見たいのです。
カール・シュピッテラー「イマーゴー」『ノーベル賞文学全集3』主婦の友社, 1972.
だれしも生きている者を彫刻したいと思う、しかし生きている者のなかで彼を生かしめているものは、疑いもなく、そのまなざしなのだ。
矢内原伊作・宇佐美英治=編訳『ジャコメッティ 私の現実』みすず書房, 1976, p.132
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