百の太陽を探して
北アメリカ(十二)カボチャの名前/後編
新井卓
(丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.87掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2019/11/21)
2014年11月7日、映画『49パンプキンズ』(※)「爆撃」シーンの撮影のためテキサス州サンアントニオから、ジョージタウンへ車を走らせる。バンの助手席では、撮影クルーのエリックがなにやら朝食の算段をしている。薄暮時に全天を覆っていた雨雲は、日が昇るにつれ、地平線の彼方にくっきりとした境界線を引きながら、薄曇りの空へと置き換えられていく。
まだ明け方の冷えが残る町営飛行場で、<デビルドッグ中隊>のメンバーがB25重爆撃機・通称<デビルドッグ>に給油を始めるところだった。1時間弱の飛行で、エンジンオイルとガソリンにおよそ二千ドルがかかる。それでも私たちはこの燃料代を負担するだけで、それ以外の経費と作業は、中隊が担ってくれることになっていたので、頭が下がる思いである。トーイング・カーに牽引され、給油を終えた<デビル・ドッグ>が音もなく、滑るように運ばれていく。その姿は風が吹けば浮かぶのではないか、と思えるほど軽く、紙飛行機のように頼りなく見えた。「爆撃」用のカボチャを積んだピックアップ・トラックが、やや遅れて到着する。軽量化のため中身を抜いたカボチャを、次々と手渡しでリレーしながら、重量制限一杯までボム・ベイに格納していく。そのうち一個は、落下シーンを撮影するため小型カメラを仕込んだ、樹脂製のカボチャである。
入念なブリーフィングが終わり、やがてその時が来た。地上クルーはすでに爆撃地点である農場「マークのマッチョ・グランデ」に移動し、カメラを準備しているはずだ。安全帯を身につけ、コックピットの後ろに陣取った。暖機運転から徐々に回転数を上げていくレシプロエンジンは、閉口するほどの騒音で機内を席巻していた。会話はヘッドフォンで、管制を中継した無線通信で行われることになる。ややあって、機体外装のチェックを終えたチーフ・パイロット、ベス・ジェンキンスが、身体をあちこちにぶつけながら搭乗してきた。彼女は、第二次大戦中従軍した海軍パイロットを父親に持つ、三十五年近いキャリアを持つベテラン・パイロットである。
地上クルーとのやりとりは永遠につづくかと思われた。轟音と強烈なオイルの匂いになかば朦朧とし始めたとき、ふと気づくと、B25は老齢の機体を震わせながら滑走路を進みはじめ、徐々に加速しはじめていた。すると、わずか十秒ほどでもう、私たちは空中に浮かびあがっているのだった。
(ラバウルで祖父を苦しめたB25に乗って、私は、爆弾ではなく、ほんもののカボチャを投下しにいくのだ)突然、得体の知れない感情とともに、涙がこみ上げてきた。
この馬鹿げたプロジェクトに呼応して、すでに二十数名のスタッフが無償で準備にあたり、数十名のサン・アントニオ市民が、ニックネームとともにカボチャを寄付してくれていた。このようにして、人々の善意によって、ヒトは不可能と思われる仕事を成し遂げてきたのだろうか?マンハッタン・プロジェクトだけでなく、あらゆる技術の発展が、こうした献身的なはたらきや、プロフェッショナルとしての自負、達成感と高揚によって生みだされてきたのだとしたら。ものをつくる、というヒトの行いにおいて、私とロバート・オッペンハイマーは、すでに同じ地平にあるのではないか──。
<デビルドッグ>は先ほどから八の字飛行をつづけていた。見わたす限りの田園で、たったひとつの爆撃地点を見つけるのは至難の業だという。
機内のはるか後方に、尾部銃座が見える。丸窓から差し込む光に照らされて、かつてガンナーが座っていたであろう回転椅子が、薄闇の中に浮かび上がっていた。来たるべき投下の瞬間に備えて、ボム・ベイの暗がりに身を乗り出しながら、私は、この心許ない機体で敵地へ飛んだ男たちの孤独と高揚、ラバウルでひたすら帝国軍機の補修をつづけた祖父の孤独と高揚を、思っていた。
※映画『49パンプキンズ』(2014)は、太平洋戦争末期、日本各地に投下された原爆の模擬弾「カボチャ爆弾」をモチーフに、サンアントニオ市の非営利美術団体・アートペイスの委嘱により制作された。
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