連載/続「百の太陽を探して」#7

百の太陽を探して
北アメリカ(八)デイトンの亡霊たち/後編
新井卓

 

(『小さな雑誌』82号(2015年)より転載)

二〇一五年秋、長崎に原爆を投下したB-29・通称〈ボックスカー〉を撮影するため、国立アメリカ空軍博物館を訪れた。オハイオの連なる段丘は初秋の光に美しく輝いていたが、わたしの目的地は巨大な、薄暗い格納庫(ハンガー)である。デジタル・カメラで〈多焦点モニュメント〉ダゲレオタイプに使用するイメージを何千枚と撮影するため、滞在期間は一週間ほどになった。

数日が過ぎても手応えを感じられず、B-29の脇のベンチで呆然と座り込んでいると、ケン・ラロックという博物館の広報スタッフやってきた。ケンは元空軍所属カメラマンで、ソウル・シンガーの奥さんと一緒に、嘉手納に一年間赴任したことがあるらしい。ケンは、浮かない表情のわたしを見かねてか、特別に展示柵の中で撮らせてくれるという。──本当はまる一日付き添いたいけど、悪いね、俺もパートタイムだから。彼は肩をすくめながら展示柵を動かして、私を中に招き入れてくれた。

機体に肉薄したはいいが、どうして撮るべきかわからず、ただ機体のまわりを何周か巡った。それから、開け放たれたままのボム・ベイを覗いてみた。ちょうど一畳かそれくらいの開口部。上半身を突っ込んだまま三六〇度見渡しても、何も見えなかった。そこはひんやりとしており、粉っぽいむせ返るような闇が、ぽっかりと口を開けていた。その矩形には、かつて原子爆弾が嵌めこまれており、それは言ってみれば七万数千余人の死の雌型である。ボックスカーの胎内で、長崎で出会った被爆者たちの声と顔が、異様な鮮明さで脳裏に蘇ってきた。何かが血のように流れて冷えていくのを感じながら、見てはいけないものを見た、立ってはいけない場所に立ってしまった、と、思った。

やがて機体の周囲に人の気配が満ちて、ふと我に返った。ボム・ベイから顔を出すと、博物館のボランティア・スタッフが、団体客に解説をしているところだった。──みなさん、これが長崎に原爆を投下し、第二次大戦を終わらせた歴史的な飛行機です。日本本土を直接空爆するために長距離かつ高高度を飛行する必要があり、B-29は、そのためキャビンを与圧する機能を備えた世界初の飛行機です。この技術は現在でも、みなさんが日頃利用する旅客機に使用されているのです……。

空爆のテクノロジーには、高く遠く、手の届かない安全地帯から、敵を効率的に攻撃することが求められる。ピュウ・リサーチの2015年統計によれば、アメリカ人の57パーセント以上が、日本への原爆投下に肯定的だ。1945年当時に比べれば賛同者の数は減ったものの、原爆投下が結果として日米両国の死者の数を減らすことに寄与した、いうのが一般的な見解である。

戦争が資本主義を育み、資本主義が戦争を必要とした、と言ったのはヴェルナー・ゾンバルトだが、私たちはいつから、殺戮を経済のように語るようになったのか。大勢が救われるのだから犠牲に、と言われたら、私やあなたは、自分や肉親の命を差しだすのだろうか?巨大なものについて語ろうとするとき、私たちはただ「私たち」という架空の主語を弄んでいるにすぎない。もはやオートマトンと化した産業や市場経済に呑み込まれながら、なぜ人は個の集合としての集団や国家のイメージを幻想しつづけられるのだろうか。第二次大戦後も途切れることなく戦争を続けてきたアメリカで、そのことについて直接に疑問を投げかける者は多くない。たとえばエノラ・ゲイに随行したB-29の機長、クロード・イーザリーを除いては。

A Maquette for a Multiple Monument for B29:Bockscar

B29:ボックスカーの多焦点モニュメント、マケット
銀板写真(ダゲレオタイプ)、73x220cm
2014
MAST財団 蔵

Comments are closed, but trackbacks and pingbacks are open.