百の太陽を探して
北アメリカ(九)ミセス・レイコ・ブラウン
新井卓
(『小さな雑誌』83号(2015年)より転載/編集・加筆あり)
光の、白い、緩慢な爆発──ブラインドを斜めに貫く陽光によって鋭角に切り刻まれ、テキサス州サン・アントニオの朝は、こうしていつも唐突に幕をあける。
みるまに上昇する外気温に追い立てられるように起き出し、コーヒーを淹れ、まぶしい真夏の戸外へ、無理矢理に身体を投げ出す。この日、サウスウエスト工芸大学の社会人向けの陶芸教室で人に会う約束があったから、遅刻するわけにはいかなかった。
明るい陽光が一杯差し込む教室では、七、八人の男女が作業台やロクロに向かって、めいめい作品作りに没頭していた。
「タカシさん?あなた!ずいぶん待ったのよ!」
日本語の大きな声に驚いて振り向く。淡い色の瞳で、カラフルな開襟シャツを着た彼女は、ひと目ではとても日本人と分からない風貌だった。よく通る声で話す彼女は、終始にこやかで、全身から何か強烈な陽のエネルギーを放射しているかのようだった。約束の時間にはぴったりのはずだったが、念のため遅くなったことを詫びてから、作業用の椅子に腰掛けた。陶芸家の彼女は、足を悪くして一度は引退を考えたものの、長年の友人であり工芸大で教えるデニスの強い勧めもあって、今もこの教室で制作を続けている。
ミセス・レイコ・ブラウンは東京の蒲田生まれ。一九四五年八月六日の朝、疎開先の山口から東京へ帰るため、彼女は幼い妹を背負って上りの汽車に乗り込んだ。広島をいくらか過ぎたあたりで、突然、汽車が急停車する──何が起こったのかは誰にも分からなかった。車掌はそのまま車内に残るよう言ったが、彼女は他の多くの客とともに外へ逃れた。なにしろ真夏のよく晴れた日で、客車はおそろしく蒸し暑かったから。そのとき広島の方角に、見たこともない異様な色かたちの雲が、空高く立ちあがっているのを見たという。
原爆の死の灰は、彼女のところまで届いたに違いない。その証拠に戦後、手術で甲状腺の大部分を失ったのだ、と。レイコはいっとき生死を彷徨い、以来、常人の許容量をこえる甲状腺ホルモン剤を服用しつづけている。
一時間も話し込んだだろうか、それからデニス、レイコの親友のジュリアも加りわたしたたいはベトナム料理の昼食に出かけた。
琉球の陶芸の話になり、縄文土器の話になり、話は太平洋を越えて駆け巡る。ジュリアは若いころサンフランシスコに住んでいて、写真家アンセル・アダムスの邸宅でメイドをしていたのだという。「毎週末のパーティで、アンセルはいつもピアノを披露していたのよ。彼がもともと音楽家だったことは知ってるでしょ?それはそれは、素敵な演奏だった……。」
レイコには、かつて若い日本人医師の婚約者がいた。戦後、まだ海外旅行などめずらしい時代。結婚前の最後の自由とばかりに、文通相手の家族を頼ってオハイオ州に旅したレイコは、そこで一人のテキサス青年に出会う。一目会うなり、二人はもう、恋に落ちてしまっていた。そこから手を取り合って逃げるように西へ、当時、国際結婚が認められていた唯一の州、カルフォルニアで、深夜に教会の神父を叩き起こして宣誓すると、市庁舎へ駆け込んだ。いつまでたっても帰らない娘を案じて父親が連絡しても、婚約者がはるばる迎えにきても、もう結婚してしまった二人を、誰もどうすることもできなかった。それから、未知の土地、サン・アントニオで、ミセス・レイコ・ブラウンの長い戦後が始まった──。
恐ろしく「チューウィーな」(噛みごたえのある)固揚げの春巻き(スプリング・ロール)を、喉につかえつかえ飲み込みながら、彼女たちのあふれ出る物語を唖然として聴きつづけた。どうやらこれは毎週、陶芸教室に通うことになりそうだ、と思った。
ミセス・レイコ・ブラウン、サン・アントニオ、テキサス
銀板写真(ダゲレオタイプ)、25×19cm
2014
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