2003年【抜粋/修正版】

[12月31日(水)/2003] 灰色

久しぶりにまとまったプリント作業をする。プリントにはある程度明確な戦略が存在するので、きちんと思考すれば大抵上手くいく。以前は単純にD-Max(最大黒)を基準に考えていたのだが、これからはもっとグレー部分を重視しよう。印画紙上のハイライトとシャドウは破裂したまま文字のように死に絶えていて(だからこそそれらが必要なのだが)、グレイの繊細な階調が、あらゆる感情と静かな注視の可能性を孕んでいる。

 

[12月27日(土)/2003] 無題

マクロ機能付きの35-70mmバリオゾナー。現在構想している「記憶地図」(本当は「記憶」と書きたくない。あたらしい体験に対して、まったく別の名を発明しなければならない)を描き始めるために、手に入れる必要を漠然と感じていたからだ。

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塩の城のように硬質に輝く雲を窓外に眺めながら(窓があるというのはいい。windowの語源はvindauga、風の眼という意味だ、と知った)、二月までにしなくてはならない仕事を書き出す。

 

[12月25日(木)/2003] Maison de Hermes

U、Kとともに、銀座で杉本博司「歴史の歴史」展を見る。『海景』シリーズは揺るぎないシンプルさで、心静かに作品の前に佇むことができる。しかし、思わせぶりなオブジェは完全に場から浮いており陳腐。
古美術の女神像、掛け軸なども展示されているが、その存在感が写真とオブジェの陳腐さのおかげで際だつ結果になっており(特に『時間の矢』でフレームに使用された火焔宝珠形舎利容器残欠の火焔の造形が圧倒的に力強く、中央の写真が落ちくぼんで見える)、作家の意図に添った結果になっているかどうか、疑問に思う。大型カメラで、肖像画や博物館の展示をモノクロ写真に変換したときに生じる「生っぽさ」は面白い。

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有楽町でタイ料理を食べ、Kからいろいろ『Aria』に関する批評を聞く。いずれにしても、あの作品を一度頭から消去して、はじめから別個のものを作ることになるだろう。そうでないと面白くない(作業も、出来上がってくる作品も)。

 

[12月22日(月)/2003] SOLSTICE

一年で最もか細い陽の光を求めて、F..から神宮前まで歩く。今日は「色」(表面の色彩ではなくて、空気を透かした光の組成みたいなもの。上手く言えない。)が良く見える気がしたので、微粒子のエクタクロームを使う。仕事以外でカラー・フィルムを使うのは春以来。
指先のふるえと瞬き、淀みないステップの中だけ、そこだけで生きている。作品だけに語らせることができ、それ以外の方法で誰にも知らせる(でも何のために?)ことはできないのだ。

 

 

[12月21日(日)/2003] 検証

映画『Aria』上映会とシンポジウムが終了。ファイナル・カットは、完成形からは程遠い代物になってしまった。当初から意図していたプランが幾つも抜け落ち、作品内部の緊張関係に綻びが生じている。いずれにしても、もう一度初めから編集その他を検証し直さなくてはならない。
上映後、写真に関していくつかの暖かいコメントをいただく。二年間の必死の移動が伝わったことはとても嬉しい。

シンポジウムは、問題点があからさまに露呈する結果になった。対話と言いながら私の発表は独善的だった。
寡黙な方向へ、という吉増剛造さんの短い言葉を、鏃のように胸に抱いて、すぐに次へ向かおう。

 

[12月14日(日)/2003] 無題

風邪の兆候が出ているのに、不思議なことに身体はいつもより軽快。夜明け前、Uと共にS..池の撮影。

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楊先生から電話、近藤春恵先生からメールをいただく。20日の上映会に来ていただけるらしい。背筋がいっそう伸びる。

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シンポジウムでは何を語り、何を伝えるべきか。わたしは研究者でも評論家でもないので、シンプルな言葉で話すしかない。どうすれば熱を伝えられるか、対話のための発話ができるだろうか。

 

[12月3日(水)/2003] ひとり遊び

ひどい頭痛、昼過ぎまで寝込む(二日酔いではない)。外は私の好きな冬の薄曇りで、寒そう。表に飛び出したい衝動を抑えつつ、ひたすら案内状の宛名書きを進める。指を使って字を書くのは官能的な作業。

 

[11月29日(土)/2003] November steps

雨で道は水浸しだが、気分は浮き足立っている。

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KWMR夫妻がカブールから一年ぶりに帰国したので、新宿まで会いに行く。TWR夫妻と講談社のSHMさん、KIDさんにもお会いする。KWMR夫妻は現地でカブール大で教え、識字率の上昇に寄与すると共に、アフガニスタン文学復興(?)のための新しいメディアを作ろうとしている。アフガン周辺では今でも、詩が日常レベルまで幅広く定着しているらしい。いずれ現代アフガン詩の邦訳を手にすることが出来たら素敵だ。
とにかく二人が無事だったのでほっとする(二人はミサイルを発射する攻撃ヘリを眺めながら、庭で歯を磨いていたらしい)。

 

[11月27日(木)/2003] 三日分

多忙というのも麻薬みたいなものだ。痺れが徐々に拡がり、無感覚が可能性を去勢する。

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昨日は矢崎監督に同行して、徳田秋声邸のロケハン。わたしは映像の合間で使うポートレイトを撮影することになっている。本郷の大学を突っ切ってすすむ道、石造りのファサードが美しい。階段の壊れた石積みの隙間で、アロエが光を浴びて幸福そうにしている。確かにこの場所なら勉強したくなるかな。

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『Aria』の案内が刷り上がる。色校の費用をけちったために、本機刷りで銀のインキが思うように乗っていない。ダゲレオタイプみたいに、光の具合によって字が読めたり読めなかったりする。Uと持って帰る道中、疲れが倍増。

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クメール美術のカタログばかり、毎日何度も眺めている。ジャヤヴァルマン7世像の頭部が、息がとまるほど美しい。私たちはこの顔にたどり着かなくてはならない、ギリシアの頭部ではなしに。そう考えるのは素敵なことかも。

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どんなに些細なルサンチマンにも関わりたくない。病的でまったくの時間の浪費。

 

[11月24日(月)/2003] 無題

二日酔いの頭の痺れが消えるまで待って、机に向かう。『Aria』のモノローグを仕上げることにした。こんなふうに仕事をするのは何年ぶりだろう?ブルーのインクでいくつものキャプションを重ね、言葉の輪を綴じる。今日でモノローグは完結。

 

[11月22日(土)/2003] 虎の灰色

大型カメラを担いで、深沢の産院までNBさんの赤ん坊を見に行く。ちいさい。ずっと眠っている。小心にも怯えるわたしに、そっと抱かせてくれたが、一体なんという重みだろう。それ以上でもそれ以下でもなく、熱っぽい充溢がこの腕のなかにある。約束のため隣駅に向かうタクシーのなかで、右腕をくの字に傾けて乗せていた、小さな頭の感触が消えない。

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日吉で用事を済ませてから、急いで三田へ。吉増剛造さんの朗読を聴くためだ。舞台に微かな地鳴りを呼び込み、ギターのガットと見えない響きの戸口が共鳴している、そこから、あの声が始まってくる。原稿用紙の束のかさばり、はばたき、白い翼。どんどん肺の空気が希薄になってゆき、手のひらに止めどなく汗が湧いてくる。塩の味がする。消えてしまえ、消えてしまいたかった、「フィルムの妖精的な」重なりのトルコブルーのなかに。
ちょっと密談、と言って呼んでくださって、少し話したけれど、わたしはほとんど口をきけなかった。吉増さんは灰色の虎の眼を、ディングルの嵐の入り江の眼をしている。

 

[11月21日(金)/2003] 無題

冬の雨後、思いがけず春のように暖かい日、大気の上層から、何か非常に巨大で優しい生き物が降りてきている、そんな気がするものだ。
電車を乗り継ぎ、K…で撮影することに決める。スナップショットは、その日最初の一枚がすべてを決定してしまう。求めないこと、安心しないこと、やり過ごさないことだ。写真に「待ち」はない(ある瞬間を待ち続けることが写真だと、ふつう言われるけれど)。

 

[11月17日(月)/2003] 反復のための発話

光だけが尖って凶暴な朝、Nostra… と呟く乾いた風のきしむ河原を辿る。やわらかいチャコール色の襟巻きに首を埋めて、思い出が、堅い小さい椿の実のように、(不意に唇が割れ鉄錆の味で耳が聞こえなくなる。)その形のまま、幾つも転がり出るままにしている。
(「おれは冬が恐ろしい。なぜなら冬は、慰安の季節だからだ。」そうではない。そうだ。)

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反復可能性について。
いま一番関心があることは、強い個別性から出発しておきながら、作り手以外の人間がその制作を容易に反復できるような作品をつくることだ。反復可能である、ということは、対話の可能性が開かれているということだが、複製とは何の関係もない。作品の構造そのものに、外側に向かって開かれた反復可能性を設置すること。いまいくつかの具体的なアイデアが浮かんでおり、来年の赤レンガ倉庫のプロジェクトでは、こうした企てがすべての中心になるだろう。

 

[11月14日(金)/2003] ピナ!

新宿でピナ・バウシュ『過去と現在と未来の子供たちのために』。身を乗り出し、鼻の穴を膨らませてひたすら凝視。感想は控えることにする(というかその気が全然起きない)。公演は火曜日までなので、事情が許すなら直接観るべき。
会場でいつもの二人と、思いがけずKWHRさん、TKSK君に会う。

 

[11月13日(木)/2003] 無題

昼は赤坂で仕事、夜はN…でSHKさんを撮影する。 前々回から使いはじめたISO3200のT-MAXは、粒子が揃っていて、中間調からシャドウにかけて貝殻のような質感が出るので、とても気に入っている。
なんといっても、明日はピナ・バウシュだ。

 

[11月11日(火)/2003] 秋聲

矢崎仁司監督から電話をいただき、徳田秋聲のドキュメンタリー用スチルを依頼される。嬉しい。

 

[11月10日(月)/2003] 無題

今日は何もしなかった。一日が、とりわけ日没までがひどく短く感じられる。
冷たい雨だれが好きだ。

 

[11月9日(日)/2003] 無題

投票に出かけたついでに、Bunkamuraで『サロメ』、青山ブックセンターで吉増剛造さんの写真展を観る。そのついでに本屋と古本屋とギャラリーを梯子。何もしないつもりだったのに。

 

[11月8日(土)/2003] 無題

慶應日吉で『Aria』ラッシュを試写。シンポジウムまであと一ヶ月。

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夕方、三人で、西麻布のグラスハウス・ギャラリーまで、小泉明朗さん(大学の先輩であり、父の同僚の息子さんという不思議な間柄)の作品展を観に行く。展覧会は三つのごく短いヴィデオ・アートで構成されており、とくに最初の一作「A Very Veautiful Woman」(綴り: ママ)は最高に面白かった。見終わって腹筋が痛くなる。それにしても、一つのアイデアを作品に収斂させていく体力は、ロンドンと富士山で培ったのだろうか?身体の限られた区画で一つの感情を表現しうるという可能性、そして感情の伝播作用、顔と自己/他者についての関心が伺われる仕事。

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シンポジウムのチラシのデザインに取りかかる。オフセット印刷のデータ入校は初めての経験なので、DTPの基礎を一からおさらい。

 

[11月7日(金)/2003] 夜の庭

夜霧に煙るF..橋を渡るのはいい。三叉路のミラーがすっかり曇ってしまって、乳白のおもてをまたたく街灯に晒している。街路の暗がりで、朝鮮アサガオの大きな花房が、不意に強く匂う。
バトパハ、ヴェネツィア。アグラ、赤城、葉山。幾つもの地名が開き、貝殻のように脆い左手でわたしの頬に触れる 。四囲に充溢するしじま。コリドール。

 

[11月6日(木)/2003] 無題

NBさんのポートレイト再撮。今日はいいインスピレーションに恵まれる。

夜、国際交流基金が招聘した中国のアーティストとキュレーターによるシンポジウムに参加。非西欧文化圏における現代美術の無数の問題点を含め、少なくとも上海、北京、南京といった都市の空気が伝わってきて、参加した甲斐はあった。
しかし、日本における「アジア」という概念をふまえ、周辺のアジア諸国に対して中国がどの様な視線を送っているのか質問したところ、グローバリゼーションという観念で一緒くたに片づけられてしまった。シビル・ミニマムが達成できていないような国で進む「グローバル化」というのは一体何か。ブルジョア芸術家と一般大衆の間で何かが決定的に乖離しており、上海や北京といった特殊なチャンネルから発信される「現代アート」なるものだけを、無批判に容認するわけにはいかない(もちろんこれは中国だけでなく他の国も同じ)。紹介された作品例のなかには、ハーストの偽物のようなインスタレーションや新手のプロパガンダに近いドキュメンタリーもあれば、顔をテーマにしたごくシンプルで魅力のある映像作品もあった。現代アートの文脈などどこにも見あたらない後者の方が、よほど他と交流する力を持っている。

 

[11月5日(水)/2003] 剥落

午前中、N..にて撮影。
どうしたら、あらゆる忘却から身を引くことができるだろう? 空虚を満たす水などどこにもない。

 

[11月1日(土)/2003] ダライ・ラマ

TWR夫妻に誘われて、MYMTさんと共に国技館までダライ・ラマ14世の講演にいく(ネパールでは2週間待っても会えなかった)。 法王はまるで子供のように茶目っ気にあふれた人だった。通訳の合間に眼鏡をサングラスに交換して見せたり、近くの人に、にこにこしながらなにやら訳の分からないハンド・サインを送っている。きっと「不特定多数」を相手にしている気構えがゼロなんだと思う。今世紀は対話の世紀である、という言葉。

 

[10月30日(木)/2003] 無題

毎日かなりの分量、歩きつづけている。今日は浜松町から浅草へ。浅草寺近くの飲み屋の路上席で、Rといろいろ話す。だれもが記述のための内的言語を持つべきだ。映像ではその役割は担えない。

 

[10月29日(水)/2003] 日輪

あと一週間で母親になる友人、NBさんのポートレイトを撮影。内側に別の生があるというのは一体どんな事態なのか?いくら考えてもわからない。

今日はこの時期の雨上がりなのに、とても暖かい。
窓を射抜いて差す陽が、畳に黄金色の矩形を刻んでいる。足指をそのなかに浸して仰向けに、そうして午後は凝っとしていよう。

 

[10月28日(火)/2003] いろいろ

昨日は取材が一件。夜は矢崎仁司監督にお会いする。映画『Aria』では、あるパートで協力していただけることに。

寝坊して目覚めると、大つぶの雨が降りしきっている。昨日の機材を銀座まで運んでから、良知君に会うため豪徳寺へ。乗り換えを甘く見たためひどい遅刻。彼は来年度から、ティルマンズが通っていたという写真学校に留学するとのこと。わたしもどこかへ行きたい。

 

[10月22日(水)/2003] 無題

ようやく暗室をしつらえ、大量のネガ現像を消化する。M..で、なまくらな右手をひきずりながら半ば強制的にテンポを刻んだのはよかった。その数日後の出来は格段によくなっている。
呼吸するように、なかば歌うように見つづけること。撮ることではなく、見つづけることだ。

 

[10月19日(日)/2003] 右手

目覚めた部屋の空気が、心地よく冷えて乾いているのはいい。午前の穏やかな陽が屋根を縫って進み、窓の桟と畳を焼いている。歩行から生まれるリズムを、次第に、カメラを持つ右腕に呼び覚ましていく。今日は気分が良い。一瞬だけRに会ってから歩き始め、持っていたフィルムをすべて使う。

 

[10月18日(土)/2003] M..にて

Y..からM..まで歩き回る。疎らな乗客に乗せて、路面電車がのろのろ動いている。(ふと記憶がよみがえる。幼かったころ、わたしはこの乗り物に乗って、すすきの穂で細工したふくろうを買って貰わなかったろうか?寒い季節で、もたもたしたジャンパーを着せられて、昼下がりの黄ばんだ陽が通り一杯に溢れていた……)
不意の雨が本降りになり、キオスクの幌にかくれて呆然と立ち尽くしている。

写真はわたしを疎外する。世界から、わたし自身から。

 

[10月17日(金)/2003] 再開

スナップショットを一ヶ月ぶりに再開。まだ身体が重い。リズムと歩行で思考を乗り越えなければ、満足のいくものは撮れない。モノローグの海から浮かび上がること。

 

[10月16日(木)/2003] 撤退

部屋の明け渡し。わたしという仮の主が去って、部屋は部屋自身の相貌を少し取り戻したようだ。うっすらと漂う船室の匂い。安っぽいペンキ、湿り気と黴。自転車を飛ばしたせいでこめかみが痛い。
二年。夢のような接近と離反。あらゆる夜と夜。

 

[10月13日(月)/2003] 城/季節

驟雨が去ると、早瀬のように冷たいきれいな風が流れる。街灯にぼんやり浮き上がって、枝葉のざわめきを投げかける木々、繋がれて垂らされた幾つものルビーのように、音もなく、萩のしげみがそよいでいる。

わたしが世界に痕跡を必要とするのは、 わたしがそれをすっかり忘れてしまうからだ。違う、正確に言えば、痕跡なしには何もかも思い出すことができず、手がかりがなければ何も繰り返し見つめ、触れ、かつてそこにあったことを知ることはできないからだ。

いま、わたしはこの場所を去ろうとしている、記憶の徴(しるし)にひしめく一部屋ぶんの空白を残して。
透明にずれていくために、忘れるために。忘れないために。

 

[10月11日(土)/2003] 昼を解放しろ

昨日で固定の仕事を退職。町屋でYSKと待ち合わせて牛肉を食べ、日本酒を空ける。
人々の顔を眺めるために、カメラを手に日中の街に出かけよう。横に積まれた本の群れを読破し、いくつもの展覧会を梯子しよう。(そして何よりも映画『Aria』を、完成へと向かわせよう。)

 

[10月6日(月)/2003] 鏡

ダゲレオタイプとリフレクション(reflection/反射、鏡像やカメラ・オブスクラによる反映)に関する短い論文にかかりきりになっている。絵画におけるミメーシス(模倣)のイデオロギーがどのように変遷していき、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、リフレクションそのものが直接的な問題として先鋭化するに至ったか。ベンヤミンが「写真にとって最良の時代は、最初の数十年だった」と述べているように、ダゲレオタイプが登場してから次の写真技術にとって代わられるまで、ごく短い時間しか与えられなかった。このことが、写真史を写真以前から現代につづくリフレクションの歴史の一系列として論じることを困難にしている。ダゲレオタイプ以降の写真技術における複製可能性や商業主義による大衆化などの問題は、リフレクションそのものを論じる上では二次的な要素に過ぎない。

 

[9月30日(火)/2003] 朔月

薄暮の大気に、うっすらと木犀が匂っている。黄金のしぶき、静まり返る石。

 

[9月29日(月)/2003] 無題

週末に映画の撮影、およびモノローグの録音。モノローグは、毎回格段に正確になっていく気がする。

ところで、わたしが録音中いろんな注文をつけたり、その場で言葉を組み替えたりする場合の基準、つまり「正しさ」とは一体何か?実体がはっきりしないにも関わらず、どこかに、かなりの程度共有可能な「正しさ」があるはずだ。言葉に関しては、そうした感覚が殊に強い。

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午後は品川で取材のため、TWRさんに同行。
帰宅してみると、なにやら大きな郵便物が届いていた。写真家の服部冬樹さんからだ。ご本人が執筆されたダゲレオタイプのテキストが入っている。非常に詳細な説明に実際的なコメントが添えられていて、本当にありがたい。

 

[9月26日(金)/2003] 無題

O..駅前の魚屋で、まぶしい裸電球に照らされて、精錬したばかりのスティールのような輝きを放って、秋刀魚が並んでいた。濡れた眼窩に深いビリジアンをたたえているのは、この魚がまだ新鮮なしるしだ。このところ色んなことがあり、自分で料理することを何となく避けていたのだが、一匹買い求め、荒塩を振って焼いて食べる。食べることがもちろん重要であり、食べる気になる、ということはいっそう重要でときに難しい。

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月曜に撮影したポジが上がってきた。Kodakの新しくなったエクタクロームは、粒子の並びが好みに合っている気がする。でも露出は厳しい。

 

[9月22日(月)/2003] 無題

昨晩の嵐が去り、空一面に縞目を横たえて、雲が西へ急いでいる。列車が轟音をたてて鉄橋を滑り、旋風に楠の木の一群れがまともにあおられて、たちまち幾千の青白い葉裏が翻る。窓のへりに目をやると、ごく微細な雨粒が踊り、雨粒同士がぶつかり合って左右に跳躍している。金属のちいさな反映、微風の冷たさ。音をたてて転がる硝子瓶、暗がりで戦ぐ水。なんという多様性、なんという現実と現実の無数の交差に満ちていることか。
空の紙コップを包む左手のざらつき。
この巨大な充溢のただ中で、わたしが支配している事象、形態といえばまったくの無に等しい。

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昨日は久しぶりに4人揃って、映画の打ち合わせをした。素材が量的に追いついていないので、がんばらなくては。
今日は午前中から友だちの二人組のミュージシャンを撮影するため、台風一過の横浜へ。空気がビー玉のように冷えていて心地よい。

 

[9月20日(土)/2003] 無題

大気の冷えが、静けさがふたたび戻ってきた。一年の半分を、顔の周囲に漂う冷たさを懐かしんで過ごしている。
35mmを手にせず、3週間になる。カメラを持っていないと、人々の顔がいっそう良く見える。

 

[9月19日(金)/2003] 無題

写真家の服部冬樹さんから、ダゲレオタイプに関する長文のメールをいただく。
19世紀当時のダゲレオタイプは、150年という歳月を経て銀の表面(=シャドウ部分)が酸化または硫化し、新しく撮影したものにくらべかなり「見やすく」なっている可能性がある、とのこと。わたしのダゲレオタイプは、以前パリで見たものに比べピカピカ光すぎているように見え、何かの工程が足りないか、単純に失敗ではないかと考えていたので、この指摘によって少し気が楽になった。

来年5月、横浜赤レンガ倉庫ギャラリーでの展示が決まったので、この機会に、ダゲレオタイプを何点か発表したいと考えている。

 

[9月17日(水)/2003] Schein der R

Rのダゲレオタイプを定着後、金調色を施す。前回は塩化金水溶液と第二液のブレンド方法を間違っていたらしい。今回はかなり上手くいった。小さい染みやスポット、むらなどの余計な痕跡は、これから全部排除しなければならない(不用意さによる「痕跡」は、わたしの探求する痕跡ではない。古典印画法を使う現代の作家の多くは、マチエールや色調、一見すると心地よい不鮮明さの段階で停止してしまっている。こうした趣味的な段階に留まることなしに、イメージの輝きそのものへと向かいたい)。

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父に薦められた宮川淳を読んでいる。イメージに関して漠然と考えていたことのほとんどが、ここに記述されている。やさしい、しなやかな声で。

 

[9月16日(火)/2003] 保留

数少ない現代ダゲレオタイプ作家のひとり、服部冬樹さんから突然の電話を頂く。お名前をよく知っていたこともあり、かなりびっくりするが、8月15日のQuick剤に関する記述について出典を教えてほしいとのことだった。実効感度に関して、何かの英文の文献にごく簡単に書いてあったことを、検証もせずに受け売りしてしまったのだが、もう一度きちんと調べ直さなければならない。

それにしても、このウェブサイトを開いてからというもの、こうした出会いが多い。心臓には悪いけれど、いつも嬉しい驚きを覚える。

 

[9月13日(土)/2003] ナイーヴな鏡

午前中からRとUに来てもらい、ダゲレオタイプによるポートレイトを試みた。一枚目は何も像があらわれず、二枚目のUと三枚目のRと条件を変えて撮影するうちに、だんだんと像が濃くなってくる。
しかし、それでもまだ濃度不足な気がする。むらも、前回に比べかなりましになったが、まだ残っている。

ヒルの文献には、銀板上に油分が残っていると実効感度が1/2から1/3になると書いてあった。リグロンで何度も表面をふき取るが、どうもまだ何かの油脂か不純物が残留しているようだ。
ヨウ化箱のニスもあやしい。これも念のため作り直さなければならないだろう。

これを書いている間も、ひたすら現像を延長している。延長すればするほど、三枚目の像は鮮明になってくるように見える。いったいどの程度まで現像をプッシュできるのか?分からないことだらけ。

 

[9月12日(金)/2003] 無題

半端な時間まで仕事が遅くなってしまったので、映画でも観ることにした。
西部デパートの裏で、たけしの「座頭市」をやっている。流石に人気があるらしく、わたしが手にしたチケットは最後の一枚だった。タップダンスがかっこいい。音楽がかっこわるい。賭場で、まだ十分に(?)因縁も付けられていないのに、いきなりちんぴらどもを皆殺しにするところは悪くない。たけしも座頭市も好きなのだが、全体として見るところはほとんど無い。
ところで、わたしはあの5chサラウンドとかいうスピーカーは嫌いだ。うしろの方からあからさまな音が混じってくると、イメージへの集中がそがれて気分がいらいらする。もともと虚構の音を、虚構の数を増やすことで粉飾しようとしている。

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みすず書房から刊行されたばかりの『ジャコメッティの肖像』/J・ロード著を電車の中で読み終わる。アメリカ人の中には、ドキュメントすることに対して、並ならぬ忍耐と謙虚さを持っている人がいる。

年譜的なあとがきを読んでいるときにどういうわけか感極まって、あわてて途中下車する。本文中にあるものは、反復につづく反復、消えない稲妻のように透き通ったテンションだけ。矢内原によるドキュメントと同じ。だが、人種も文化も年代も異なるのに(しかも、互いに交流もなく)同じとは、素晴らしいことであり同時に異様なことだ。ジャコメッティの肖像画が一見どれも似通って見えるのと同じ理由で、おそらくは。

 

[9月8日(月)/2003] 無題

書店、駅キオスク等で本日発売の『LOOP』10月号に、わたしの仕事が何点か載っています。

 

[9月7日(日)/2003] 無題

お昼から、N.O..でモノローグの録音を行う。今日は今までになく、声に、言葉に、ノイズが多く混じって思うように飛んでいかない。(ある種の反動としての躁的状態にいるのだ、今、わたしは。)
しかし、そんな私に比して、KMの応答は早い。わたしたちは、言葉と声の距離に関して確かに、ひとつの糸口を見いだしたと思う。

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夕方はS..池でお祭りがあったので、友人たちと見て回る。境内では田舎能をやっており、天照大神に扮した老人が、クマソ征伐の舞を舞っていた。浴衣を着た女の子や、団扇を腰に差した鉢巻きの男の子が、宝石のような金魚に凝っと見入っている。幼かったころ、お祭りは魔術的な欲望(ちいさな、抗いがたい欲望だ)と、握りしめた小銭で何が買えるかという現実的な悩みに引き裂かれていたものだ。
お好み焼きや串焼き、あんずあめなど、思うまま頬張りながらそぞろ歩く。

 

[9月6日(土)/2003] 無題

ダゲレオタイプ2回目。前回は沃化が不十分だったので、今回は時間を延長する。Rをモデルに撮影後現像するが、いつまで経っても何の像も出てこなかった。考え得る要素が多すぎて、まったく困惑してしまう。沃化を打ち切るタイミングが違ったこと、露出不足、銀板に油分が残っていたことや、カットホルダーの向きを間違えていたこと(これは一番どうしようもないミスだが、時々こういうことをするので油断ならない)などが考えられる。時間はかかるが、まずは沃化のタイミングを検証するのが先決かも。

 

[9月5日(金)/2003] video

ふたつのヴィジョン。薄明の群青に凪いだ岸辺、それから、原始人や銀光する海水魚や眼玉などがぎっしり詰まった禍々しい夜。
眼は性感帯であり、常習的な欠乏をイメージが備給するのだ、というのはおそらく正しい(つまりそれで白昼夢の説明がつく)。

デジタル化された映像はある種の過剰によってセクシャリティを剥奪された視覚なので、逆に不浄であり、本来は視ることもかなわない。

 

[9月2日(火)/2003] 試論

ダゲレオタイプを手にしてみると、どうしても「鏡性」という問題を無視することができない。写真史において、ダゲレオタイプは、神秘主義的言説によって熱っぽく崇拝されるか、あるいは実証主義的なテクストの中で、以後の写真へと途切れなく続く単なる技法の一段階として事務的に扱われるか、そのどちらかだった。しかし、本来はムラーノで鏡が生産されるようになってからの絵画、デューラーだとかベラスケスからダゲレオタイプまでの鏡的イメージと、ダゲレオタイプより後の(広義の)写真的イメージ、というふうに切り分けるべきなのではないだろうか?もちろん、絵画史と写真史、というような二本立ての系に留まってしまえば、何も見えてこない(19c絵画の鏡的特性には注目すべきものがある。ドラクロワ、バジルetc.を見よ)。

一般的なネガポジ写真(特にセルフ・ポートレート)の特性である「疎遠さ」「奇妙さ」(バルトはお気に入りの自分の写真(どころか母親の写真さえも)見い出せないでいた)は、ごく単純に「左右正像」である、ということからも来ているかもしれない(ちなみに、ダゲレオタイプは、いわゆるネガポジ法でないためふつうは鏡像である)。

また、紙焼きの写真は当然ながらイメージに対して、そのゼロ面である「紙」という支持体自身の物質性が支配的であるのに対し(このため、イメージはそれ自身の内的な輝きと言うよりは、紙やゼラチン面の反射光を知覚しているのだ、という、かなり明確な意識を私たちにもたらしているはずだ)、ダゲレオタイプに浮かび上がるイメージは、稲妻のような光そのもので、とらえ所がないと同時に圧倒的な現存性を放射している。銀板という強固な物質を支持体としているにも関わらず、こうしたイメージ自身の輝き(リヒターの言うところの”Schein”?)が同居しているのは、やはりその表面が鏡面であるからにほかならない。しかも、「磨けば磨くほど」よく写る(1839年に発表されたダゲールの技法案内では、「磨き方」に半分以上の紙幅が(記憶が正しければ)費やされていた)。

 

[9月1日(月)/2003] 無題

午前中、いろいろな手続きを済ませる。
夕方から母の個展のオープニング。いろいろな人と再会する。銀座7丁目の青樺画廊にて、9/6まで。

 

[8月31日(月)/2003] Merge/Submerge

今日はダゲレオタイプのテスト撮影をおこなう。とりあえずは成功。精度を上げるには、たぶん各プロセスの細心の検証が必要だ。

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真正面から見つめると、わたしの顔が写っている。それは銀の鏡だ。
光を背にして斜めに傾けると、突然、強い紫が顕れ、世界が引き延ばされた時間の中に凝固しているのが見える。
S..池の細波は(あと一月もすればわたしは、この池に長い別れを告げるのだ)時間の累積の中に統合されて白く輝き、松の枝の一筋、また朽ちかけた杭を繋ぐロープの縄目までが、麻疹のような明晰さでくっきりと像を結んでいる。
泣きたいがまなざしが途上で宙づりになってできない。止揚。そして何かがたった今激しく瓦解している、あるいはたった今瓦解していた、といった時制の不一致が許されるだろうか?
イメージとはイメージだ。あらゆる情動やそれに基づく定義は二次的で(間を置かずすぐさま溢出するにせよ)、イメージは種子、言語化不可能な「つかえ」、喉に詰まった杏の種だ。

強いイメージが硝子のように透きとおって、いくつも林立している。それは美しい、それは酷い。いくつもの疵、切り口があまりにも鮮明なので、決して塞がりはしない。

 

[8月18日(月)/2003] DL

パソコンがクラッシュし、復旧にまる一日費やす。
夕方、D社編集部にラボから上がったばかりの写真を納めにいく。荒天のため撮影が遅れたが、締め切りぎりぎりで間に合った。
密着焼きに向かうが、今日はなにも見えない。なにもできない。
苛立ちを遠ざけること。(静かに、静かに)両手を隠し黙り込むこと。

 

[8月16日(土)/2003] Ficus carica

寝坊し、モノローグの作業のため慌てて戸塚へ。無花果を買って帰り、縦に割ってスプーンで掬って食べる。遠いイベリアの味がする。電話が一度きり鳴って止む。まだ降っている。

 

[8月15日(金)/2003] 無題

東京都写真美術館の資料室で、ダゲレオタイプに関するいろいろな国の文献を調べる。沃化銀を感光させ、水銀蒸気で潜像を顕わす─というような単純な説明では済まないことを、改めて感じた。なかでも衝撃を受けたのは、1840年代中盤にはすでにQuickと呼ばれる薬剤が開発され、実効感度がかなりの程度改善されていたという事実だ(以前から、Gustav Oehmeという写真家のダゲレオタイプが不思議で仕方がなかった。三人の少女を正面から捉えた写真なのだが、あまりにも生々しく、あまりにも鮮明なので、どうしてこんな歳の子供が長い露光のあいだじっとしていられたのか、ずっと気になっていたのだ。Quick剤はまさに、子供の写真の需要に応えて開発されたものであるらしい)。Quick剤の処方はそれぞれの工房の秘密で、それぞれの工程にはオリジナルの工夫があり、忍耐と熟練を要する。

– – –

午後はまたモノローグの作業。
帰ってから、まだプルーフしていなかったネガ40本を、すべて密着焼きする(Agfaのペーパー現像液を初めて使ったが、とてもいい感じ。RCペーパーの保存性を著しく損なうカドミウム・ホワイトを添加していないのはAgfaだけで、そんな事もあり、私はこのメーカーをひそかに信頼している)。

 

[8月14日(木)/2003] 無題

昼下がりに埼玉から戻り、映画のモノローグの素材を集めるため、RとKMに会う。基本的に、母にしたのと同じ方法で記憶のインタビューをすすめる。だが、このもどかしさは何だ?たぶん、こうして集まる個々の記憶があまりにモノローグの最終形から程遠いのだろう、この本当に微細な核から、結晶のように冷えた詩の枝を、遠くへ鋭く伸ばしていかなければならないのだ。時間の不足を感じ、手を動かしていなければ焦りに圧し潰されてしまう。

夜は、溜まっていた現像と密着焼きを少し消化する。

 

[8月12日(火)/2003] マルス、ヘリオス

昨日横須賀で仕事をしたついでに、平塚まで足を伸ばした。どうしても泳ぎたくて、台風が掻き混ぜて行った、オリーヴ色に濁って荒ぶる海に入る。うねりに引きずられながらがぶがぶと泳いでいると、午後4時の斜陽が差し掛かって、茫々と吹き付ける潮風に何もきこえない。
やがて東の洋上にネーブルオレンジみたいな満月が昇り、漣を黄金の欠片で一杯にしてしまうと、暮色よりも一層黒い飛形になって家路を急ぐかもめ、その彼方で、いつしか火星が燃えていた。

– – –

午後はまた撮影が一件。夕方は、鍍金の相談をするため浅草の町工場を訪ねる。
毎日いろいろな場所で、浴衣を着て盛夏の装いをした男女を見かける。今年の夏はとてもはやい、わたしはもう半分失ってしまった。

 

[8月10日(日)/2003] 無題

立て続けに仕事の依頼が入り、多忙な毎日。ダゲレオタイプは、鍍金のテストが上手く行かず苛立ちが募る(やはり業者に頼むべきだろうか?さすがにこのアパートで、シアン化合物を扱うわけにはいかない)。

今日は朝から映画の写真を撮るためK…へ。この一ヶ月の間、N…で行き詰まりを感じていたが、場所を代えふたたび糸口を見出すことができた。歩行と指先を繋ぐのはリズム、R風に言えばそれはダンスだ。女の子が落とした帽子を拾い、かがんで手渡すという場面を四度も繰り返すと、一日がぜんまい仕掛けのおもちゃの様に、ジャック・タチの映画みたいに、感じられてくる。

 

 

[7月30日(水)/2003] 無題

早朝、撮影の仕事のため浜松へ向かった。湿度70パーセントの大気の底で、深緑の丘陵地帯から、湯気のような雲が茫々とたなびいている。

家に帰るとまだ陽が残っていた。冷水を浴びてから着替えて、暮れかかる街路に彷徨い出る。ばら色の中のブルー。オレンジ、カリプソ・オレンジ。サックス、ルドン・ブルー。
日の残滓を惜しんで、蝉が一斉に鳴き始める。夏は悔恨の巨大なシーニュだ。

 

[7月28日(月)/2003] 無題

六本木ヒルズの蜘蛛の前で、Kと待ち合わせる。会うのは久しぶりだ。
ジャック・タチの「左側に気をつけろ」「郵便配達学校」「僕の叔父さんの休暇」を観る。隙間だらけ(つまりそこに、哄笑と哄笑のはざまに、リアリティが貫入する余地があるということだ)、創意に満ちた素敵な映画。

 

[7月27日(日)/2003] 無題

想い出に顔が凍えていては、まなざしを向けられない。
水面、
夕立を呼ぶ風に戦ぐ噴水。
小径を抜けると一斉に水鳥たちが啼きはじめ、
ブリリアントに輝く
花、
(「わたしは覚えている、」)
白い……
匂い立ち
それは白い、
釣りがね型の花。
夏の真夜の群青、煤けた夜の四隅で目の瞑れた街灯の足許で不意に強く匂い、
ゆっくりと裂け始めわたしはそれを棄てる、
棄てる左腕の素直さがひどく気になる、
束。
花の束。
花のふさ。

 

[7月26日(土)/2003] 夕餉

昨晩あんまり騒々しいから、大家に頼んで苦情を出してもらった(早くもわたしは後悔しているのだった、でも、眠らなければならなかった。)上の部屋の学生が、今はひとり、おとなしく包丁を使っている。不器用そうな、まばらな音がきこえる。
弱い白熱灯は夜のキチンに吊られていて、丸まった背中が白く照らされていて、これでは手元が影になってしまう、
まな板に転がった青葱も、パッキンの弛んだ蛇口も、あなたのうつむいた顔も。
六つに仕切られた夜、それらは決して混じり合うことがないので、
この仮の寝屋では、煤けた夜の孤独に、六畳と四畳をつないだ空虚に、ひとりずつ、向き合わなければならない。

 

[7月12日(土)/2003] レンブラント速報

オランダで、数百年ぶりにレンブラントの自画像が発見されていたらしい(オークションで落札したのはアメリカのカジノ王だそうだ。こういう作品をこんな人物に売却するオランダ人の神経が分からない。レンブラントの自画像はその特異性から、体系的に研究されるべきものだし、いつでもパブリックな形で参照できるようでなければならない)。

28歳のこの自画像の背後にも、やはり円が描かれている。周辺でトリミングされているものの、晩年の作品に見える分割された円ではなく、首の背後に中心を置いた完全な円。28歳といえば、画家が栄光の絶頂にある時期だ。完全な円と割れた/割られた円。

「栄光は幸福の輝かしい喪である」(Germaine De Stael)
レンブラントを見ると、いつもこの言葉を思い出す。

 

[7月5日(土)/2003] 無題

午後一杯はいろんな場所で撮影。撮影済みフィルムを一本駄目にし、買って間もない靴が壊れる。ついていない。
夜、恵比寿のビルの谷間レストランで、エディンバラから帰国したSKさんに再会。仕事も順調に見つかりそうとのこと。SKさんは現在制作中の映画の主人公なので、これからまた撮影を始める。彼女はタンゴをマスターして帰ってきたが、私の写真はこの一年でどれくらい成長したというのか?

 

[7月3日(木)/2003] talk to her

朝、慶応アートセンターのアーカイブ制作を手伝うため、三田へ向かう。Uが現場の監督をしており、私は7台のカメラを遠隔操作して、舞踏のワークショップをDVDに記録していく係。ENDさんにコントロール・パネルの操作をガイダンスしてもらい、前半は学部生のUMZKさんにも手伝っていただいた。素晴らしい施設で、スタジオの上方から全てが見え、全てが指先の操作でコントロールできるので、なんだかとても楽しい(しかし、気をつけなくては。「エンド・オブ・バイオレンス」。)。

仕事を終え、画材屋に寄ってから、銀座のライオン前でYSKと待ち合わせ。ようやく公開になった「talk to her」を観るためだ。パンフレットによるとこの映画は、ペドロ・アルモドバル監督の、私たちへの「抱擁」であるらしい。「そして抱擁というのはあたたかくなければなりません」という彼の言葉を引き継げば、抱擁はまた、あたたかい沈黙のうちになされなければならない。この映画は、とやかく分析したり批評したりする種類の作品ではないということ。私はといえば、ピナ・バウシュとカタエーノ・ヴェローゾという不意の2発を見舞われて、かなり初めの方でもう沈黙していたのだが……。

 

[6月29日(日)/2003] 無題

丸2日間一睡もせず、更に昨晩遅くまで飲んだため、寝床で気がつくとすでに昼下がり。
急いで身支度し、SMBさんの4人展を観に自由が丘へ。彼女の作品は、自然の中のいろいろな形から意匠を着想しながらも、決して自然物そのままではなく、それが金属に置き換えられることによって、全く新しい存在感を獲得するように造型されていると感じた。ぽってりした銀の感じが気に入り、一点だけ譲っていただく。

夜、UとR、KMが制作に携わった映画「VOICE」を観るため下北沢へ(この街に行ったのはたぶん半年ぶりだ)。ひとつの確立された作品と言うよりは、習作としては完成度が高いと思った。とにかく、一枚岩のコンセプトだけで成立する映画というのは無いような気がする。良くも悪くも、映像作品というのは万華鏡的だし、私はそうあるべきだと思う。上映後に、監督のTNKさん、文学批評鋭いKYTさん、それから女優のKWHRさんに出会う。次の機会には、もう少しゆっくり話したいと思う。

夜の三叉路にに山梔子が匂っている。もうそんな季節だ。

 

[6月23日(月)/2003] 無題

日曜日に母を取材して収集した素材から、作品のためのテキストを書きおこしている。何枚かの写真を基点に、想起のプロセスを何度も往復運動させる。そうした反復運動によって、(母が言ったように)デッサンによって、濁った記憶の原石を、白く輝く空白を、次々にカットしてゆくこと。ブリリアントに。いくつもの描線によってひとつの確認事項が複数化し、その複数化によってひとつの証言が複数化していく。記憶はよく「引き出し」に喩えられる。まさに引き出しを開ける毎に、つまり想起する行為毎に、引き出しの中味はずれ、際限なく変容を受け、決して一定であることはないはずだ。
インタビューの方法をある程度確立すれば、次のドキュメンタリー作品の基本的構造として、こういった作業を配置することができそうだ。

 

[6月18日(水)/2003] 無題

夜、舞踏の舞台撮影のため慶応大へ。昨年末の撮影の時に見かけた人々が往来している。一度カメラを向けた顔は、鮮明に覚えているものだ。

遅い夕食を済ませ、手紙を一通書いていると、もう1時半を回っている。不意に辛くなってペンを放りだす。砂、まるで白い荒れ野。

 

[6月17日(火)/2003] 供物

今日もこうして月が沈み、すでに深い夜の襞に、冷えと疲れが滞留している。
隣家の室外機が、かすかな軋りをたてて止まる。
(眠りは断絶だが、今や、わたしは不眠なしに進まなければならない)赤い眠り、灰の中の目覚め。
昨晩の仕事、積み上げた言葉をぜんぶ燃やして、明日、青ざめたもっと光を、夜を。

 

[6月16日(月)/2003] In & Out

日曜日、東京都写真美術館にて「20代作家の挑戦 In&Out」の日韓交流会に参加する。日本人の作品は、そのほとんどが紙くず的なコンストラクテッド・フォトで、どれもすぐに出典が明らかになるような、二番煎じ的な物ばかり。不安を覚えながら進むと、ひとりだけ曖昧な弱さ(それを「若さ」であるなどと誤解すべきではない)から身を引いている写真家がいた。金仁淑(Kim, In Sook)という人で、会場で話すことができた。在日三世の彼女は、はじめ「オリジナル」であろうとして大阪の朝鮮人学校を撮り始めた。しかし、一年半の交流を経て、もっと人間的な関係性の中で、まなざしの純度を上げていったのだ。最後に残ったのは、「少女が女になりつつある微妙な年齢」だそうだ。ドキュメントすること、についても、長い間そのことを思考した「跡」が見えるような、とてもシンプルな言葉で語っていた。

– – –

ダゲレオタイプの基材となる銅板を、京都から取り寄せる。あとは薬品の調達と、ちょっとした(わたしの嫌いな)木工細工が残っている。もっと早く。次から次へ。

 

[6月12日(木)/2003] 無題

先週末浜松町で撮影したネガから、密着焼きを作る。うんざりするほど沢山あり、結果はどれも期待はずれ。何かの合間に撮った写真、それからこの前海辺で撮った写真には、いくらかましなものがある。
わたしのまなざし。常に洗い、絞っていなければ、雑巾のようにすぐに汚れてくる。

– – –

夕方から映画の打ち合わせ。始終不快な湿気。言葉のなかに痼りがあり、上手く語れない。喫茶店に移動し、異様な知らない人々(何が異様なのかすぐに説明することができない)に囲まれ、届かない声を必死で投げつけ、喉を嗄らしてしまう。
6月の躁鬱。

 

[6月9日(月)/2003] 無題

死んだ猫の墓に参ってから、M珈琲店に出かけ、お昼をご馳走になる。
ふたたび海へ。なだらかに下降を続ける、真っ直ぐな線路。水いろの制服を着たふたりの女の子。エナメルの新しい靴をぶらつかせて、たびらこの花を制帽に挿している。写真を撮ると、いかにも不安げな顔になってから、ひそひそ話を始める(でも、ぜんぶ聞こえる)。明日、わたしのことを先生に言いつけることにしたらしい。こちらに向き直って、にやにやしている。(わたしが誘拐犯に見えるだろうか?困った。とりあえずやさしい笑顔のふり。またひそひそ話。子供には負ける。すぐ彼らのゲームに引き込まれてしまうからだ)

湾の周航船に乗る。わたし一人。落日。薄暮。ブルー。

 

[6月7日(土)/2003] 牛腸茂雄

眠そうなRを誘って、竹橋で牛腸茂雄展を観る。点数は少ないのに、圧倒され見終わって頭の芯がぐったりと疲れる。牛腸茂雄よりも精度(?)を上げることは可能だろうか?無理だろう。でもそれを目指してみるべき。

夜は区民プールで2時間ほど過ごす。これから毎週泳ぐことにしよう。

 

[6月6日(金)/2003] フーコーの振り子

今日はじめて東京タワーに登った。

 

[6月5日(木)/2003] 米田知子 + Sophie Calle

めずらしく夕方の時間が空いたので、銀座で米田知子”Beyond Memory and Uncertainty”と、Sophie Calle展を観る。

米田知子は「記憶」というつかみどころのない言葉の周りを、周到な準備に基づいて巡る写真家だ。「記憶」という言葉が、何かアイデンティカルな概念を指し示すわけではないことを、恐らく意識しているに違いない。まさにuncertainty(不確実性)とは単に私たちの記憶のあやふやさでなく、「記憶」ということばの輪郭を指し示している。
「コルビジェの眼鏡」(コルビジェといえば、パリ市を完全に更新して、痕跡という痕跡を消去しようと目論んだ建築家だった)や「ノルマンディ上陸作戦のあった海岸」などを前にして感じるのは、これらの「記憶」を表象する(あるいはキャプションによってそう記入されている)イメージに、わたしが全くアクセスできないもどかしさだ。痕跡とは、疵を負ったものとそれを与えたものとの関係の中で固有であり、第三者に対しては完全に閉じられて(encryptされて)いる。
そうした意味で、もし彼女が歴史や記憶を漠然と共有しようと考えていたなら、それは失敗している。言葉は常に一人称で語られるので、私たちはその内容を、歴史を共有できると思い込む。しかしイメージは沈黙しており、いま、みたままのもの以上の何かを含むことはできない。イラク空爆から帰投したB55戦闘機を薄明の空の遙か彼方に認めるとき、その近づき難さ、上滑りするまなざしゆえに、この写真家の差し出すイメージが、あの執拗で妙に人なつっこいプロパガンダ的写真の対局にあるのだと、理解されることになる。

ソフィ・カル展では、新しい作品は一枚しか見ることができなかった。頭を枕にもたせかけたセルフ・ポートレイト。反則技を食らった感じ。

 

[6月4日(水)/2003] 変更

映画のための写真は、これから撮り方がすっかり変わるだろう。いままでの私の歩き方は速すぎたことに気付いた。外界が私を圧倒しに来る前に、私が外界に向かって進んではならない。

– – –

ダゲレオタイプの資料が整いつつある。なかでも水銀に拠らない現像法(ダゲールが公式発表した翌年に発見されたらしい。しかしどういう訳か普及せず、忘れられてしまった)の研究は、検討に値する。水銀蒸気で寿命を縮めなくて済むかも知れない。
すぐさま始めたいのだが、いま金がないから資材を揃えるのにあとひと月はかかりそう。

 

[6月2日(月)/2003] 極薄

写真的な「極薄/Inframince」は、むしろ画面の周辺、そしてほとんど不可視と言っていい真中心に存在する。アジェの写真には、写されたものの表象を通り抜けて、純粋な写真性、ある種の「極薄」と交感する覚醒したまなざしがある。

 

[5月26日(月)/2003] Panta Rhei

焼き込みや覆い焼き、フィルターワークなどによってその現実を手なずけ、手にとって見易い作品に仕立てることは、とても簡単だ。しかし、眼前で生成しつつあるすべての現実がそうであるように、印画紙に定着された「写真における現実」もまた、本来は安全なものではないはずだ。不安に駆られて、何かliveなもの、得体の知れないものの息の根を止めてはならない。

 

[5月25日(日)/2003] 無題

夕方にYSKと落ち合い、キシェロフスキの「愛に関する短いフィルム」を観る。最初あばずれ風だったGrazyna Szapolowskaの指先が、恋に目覚めるとともに、はにかむような少女性を帯びるのには驚かされる。

 

[5月23日(金)/2003] 無題

同年代の作り手、特に写真に関わる作り手と話していて驚くのは、彼らの関節があまりにも固いことだ。
完全に手段が目的化しており、手段の差違に対して激しい拒絶反応を見せる。一種の強迫観念なのだろうか?いったいどんな理由で、例えば、写真と言葉、言葉と絵画、絵画と写真、などという対置に必然性を見出すのか、理解に苦しむ。
誰が何を好き/嫌いであるか、そんなことをお互いに示し合ったところで全くの時間の無駄であり、対話などではなくたわいのない井戸端会議以上のなにものでもない。

 

[5月21日(水)/2003] 葵上

夕方から能の舞台撮影。ふだんは絶対に使わない望遠レンズを持ち込み、三脚を振りかざして、ぎこちなく仕事をすすめる。

会場となったK大の新設ホールは、とても豪奢で近代的な建築だ。こんなシャルル・ドゴール空港みたいな傾斜の上で舞うとは、いったいどんな取り計らいだろうか。しかし、一旦番組が始まってみれば、丁寧に持ち込まれた舞台装置は周囲から浮き上がり、海峡に浮かぶ島のごとく、徐々に完全な孤立の中へとずれ込んでゆく。高度に確立された様式というのは、精巧な宇宙船のようだ。固く閉じ、頑丈に輝き、損なわれることなくどこへでも運ばれてゆく。たとえそれが根無し草的であろうとも。
能の内部に響く音楽には、低音域が欠落している。麻疹の様に透き通った発熱状態。それは霞んでいるのに強い輪郭を持っており、夕立を孕んで帯電した空に、遠く、高く、感情の幽霊が翻り、地上に異様な高揚を残したまま、裾をたくし上げそそくさと立ち去る。

 

[5月14日(水)/2003] 無題

映画のラッシュが迫り、今までの写真を選び直す作業に追われている。去年の春からの密着焼きを見直していると、まるで遠大な柔軟体操を続けているみたいだ。最初の半年か一年には何一つ豊かなものはなく、逡巡と構成的要素に満ちていて、激昂のあまり全部ごみ箱に叩き込みたくなる(過去の写真を破棄しないように、とRに何度も釘を刺されてきたのだが)。

写真を選別するとき、分別を保ったままコンテクストを排除するのはとても困難だ。ハウンド犬を繋ぐ縄を、右手の小指一本で支えるような困難さがある。ひとつ前、あるいはさらにそのひとつ前に得た写真にかなりの程度左右され、選んでしまった後で自分のまなざしが無垢でなかったことに、幾度も気付かされるのだ。

気晴らしに、休日に横浜で撮った密着焼きを眺める。
少なくとも昨日より今日、そして今日よりも明日、僅かだがいっそう先に進んでいるという感覚によって、続けていける。

 

[5月13日(火)/2003] 帽子

ヨゼフ・ボイス来日の前後を追ったビデオを観る。ビデオのディレクターは畠山直哉だ。
無批判に受け継がれたものから解放されること、共感と反感という感情的段階に留まることなく、各々自身のGestalt(形姿)に到達すること、とボイスは言った。共感/反感という対立項的な感情の亜種として、あるいは共感/反感の留保=準備状態として、「受け入れ」という状態もあり得、これは得体の知れないもの、また逆にレディメイドに与えられた価値に対して思考停止することだから、いっそう致命的だ。
畠山直哉のまなざしによって捉えられたボイスの周囲は、共感と曖昧な受け入れのポーズに満ちていなかったか。
彼自身の生み出すいかさまなアクション、一見して可燃ゴミのようなオブジェは、それ・そのもの自体が新しい抑圧を待ち受け、今まさに、私たちすべてが、そこから始めなければならないのだ、という繰り返される要請に過ぎない。

無数の声、無数の発話に轟いていながら、世界は静寂に閉ざされているかのようだ。
対話を、始めなくてはならない。

ある友人は、得体の知れないもの・自己を脅かすものを殺戮すること、と言い、もう一人の友人は「生み出すことによって周囲を抑圧したいのだ」と言った。デリダは、記入は抑圧に対して生まれ、また記入することは抑圧することだ、と書いていた。
抑圧、記入による新しい抑圧、そしてまた新しい記入、こうして、この新しい対話の方法によって、ホロコースト無しに、戦後無しに、あらゆるシステム無しに、私たちはずっと続けて行けるだろう。ダダもポップもポルノグラフィも無しに、回転し燃え上がる、車輪のそれぞれの輻のように。

 

[5月9日(金)/2003] D’ailleurs, Derrida

「デリダ、異境から」の上映会、及び鵜飼哲と鈴村和成による対談を観に行く。
これはドキュメンタリー映画ではない。「デリダは生成しつつある哲学だ」と言ったジャン=リュック・ナンシーの言葉を借りれば、それはまさに「生成しつつある映画」だ。デリダが語り=記入し=傷つけ、サファ・サティのまなざしとモンタージュによってデリダ自身も記入=傷を受け、イメージは傷だらけの場所(鈴村)、傷だらけのまなざし、傷だらけの表情を受け止める。こんな錯綜した記述の場において、傷また傷、一切合切が痕跡によって刻印(mark)されている。
[5月8日(木)/2003] 無題

現代のダゲレオタイプ作家の作品を、写真集で眺める。なぜ、こんなにつまらないものばかり撮るのか?
写真技術の進歩に伴うアウラの消滅と共に、私たちのまなざしが力を失い、もう無垢ではなくなったというのか。
自分自身でダゲレオタイプ・プロセスを再現することを決意する。

 

[5月7日(水)/2003] 錬金術のレッスン

蒸気をいっぱいに含んだ大気の下層に、芍薬の青い匂いが、ぬるく、重くたち籠めている。
冬のあいだ私を支えるものは、冷えきってふるえる世界の格子、そして私の骨。
夏に私を支えるものは、憤怒、火に包まれ燃え上がるまなざし、果たされない欲望。

– – –

4×5インチカメラによるスナップの現像。手でやると液温の上昇が著しいので、途中の工程にタンクを導入して折衷的におこなう。ネガの濃度はまずまずだが、ピントがまったく合わず、60分の1秒でぶれがひどい。
露出計も距離計も付いていないカメラを手にすると、写真という行為が、いかに光と空間に対する鋭敏な感覚を要求するかがよく判る。ヨデフ・スデックの偉大さが、身体的にも改めて理解される。彼は、計量という観念をまったく放棄して(味見で現像液を調合し、帽子を使って経験で露光時間を調整していた)、身体感覚のみで、あんな透きとおったイメージを定着していたのだ。

 

 

[4月27日(日)/2003] レンブラント

ずいぶん前、晩年のレンブラントの自画像の背後に描き込まれた円は何か、という話を書いたところ、これについて仏のM嬢からメールを頂いた。ジォットが、当時の法王に腕前を見せろ、と言われたときに、完全な円を描いて見せたことがあり、このエピソードと円熟した自分の技術を比しているらしい。
それにしてもなぜ半円なのか?これについては、以前Kから推理と共に、比較のためふたつの半円を消去したイメージを見せてもらったこともあった。
いろいろ総合すると、余白部分に円を描くと違和感が強いので、まず半円を描き(Kさんが指摘したように背景のオブジェクト(鏡とか)の簡略化した輪郭に見えなくもない)、さらに円残り半分の部分を補完しつつ画面のバランスを保つために、反対側にこれを描き込んだのではないか、という推論が成り立つ。

ジャン・ジュネを読んでから、この画家についてあれこれ語る欲求を失ってしまったが、少しナルシスティックな若い頃の作品から、失墜してすべてが抜けきって、深い、強いまなざしを帯びた晩年のものまで、私は、彼の自画像がとても好きだ。そして「サスキア」も。

– – –

水張りしたパネルを乾かしているため、部屋に布団が敷けない。猫みたいに隅の方で仮眠をとり、美しい夢を見る。嵐のなか、海辺で、華奢な虹色に輝く巻き貝を、腕一杯に集めていた。

 

 

[4月13日(土)/2003] 雫

むっとするような湿り気を含んだ空の下、雨粒に薄いコートを浸しながら、OG..の街を歩き回る。
スナップを撮るとき、いちばん上手く行く状態は繊細な場所にある。躊躇いが消え、まなざしを冷やして、眼前で生成しつつある世界に驚嘆しながら進む。落ち着きが過ぎると、今日のようにあざとさが混じり、騒々しいくせになまくらな精神がまなざしを汚すことになる。

 

 

[4月6日(日)/2003] 春の水

昨晩の酔っぱらいたちが帰ってから目覚めると、部屋中に膨大な数のワインの空瓶が転がっていて、まったく呆れてしまう。
午後からはRとUが訪ねて来、花見ついでにS…池のボートに乗る。今年最初に目にする燕が水面をかすめ、岸辺に、柳の燃えるような新芽が眩しい。
今日初めて会うKMを待つあいだに、突然、映画のタイトルが決まる。
彼女が加わることで、この映画に声が与えられた。水に水を重ねるようにして出会い、深く、もっとずっと遠くへ。

 

[4月3日(木)/2003] 無題

白いスクリーン、下塗りに輝く画布、どれも踏み出す足を躊躇するほど恐ろしい。
停止があまりにも持続すれば、あなたが、世界の側が恐ろしい速度で動いているように見え、その流れに意思を打ち砕かれ、ふたたび歩き出すことが全く不可能な事に思えてくる。
停止せずに待つこと。矛盾してるだろうか?

– – –

雪解けのT..から帰ると、池の桜が咲き誇っていた。盛り上がる花叢の、白い緩慢な爆発によって、四囲の空間が異様な緊張と螺旋状の叫びに震えている。こんな粛々とした歓喜は、ほとんど眠りに似ていると言っていい。

– – –

小さな金の輪、を。強く、輝く、たくさんの輪を。

 

[3月26日(水)/2003] 煮付

夕闇に浸されたキッチンで、電灯も灯さずに、桜いろのさかなを煮ている。
凝っとしていることが一番辛くて、単に金がないというだけの理由で、時にはながいあいだその状態に耐えなければならない。
小声で呟いた事柄が、思いもかけない強さで伝達され、華々しく迎え入れられることもある。ひとたび確信に満ちてさえいれば。
待つこと。わずかにふるえること。耳を峙て、冬の関節を開くこと。

 

[3月24日(月)/2003] 偶然

街は静かだ。相変わらず猥雑で騒がしく電磁波と着信音に満ちていて、色んな戸口から少しずつ吐き出された熱気が集まって一個の巨大な吐息のように澱んでいる、いつもの街のように、という意味で。
口を開けて転がるザクロのように無秩序な情景の中に、背後に、目に見えない強い縦糸が存在している。
が、それは美しくもなく無色無臭で強靱で、巨悪でも偽善でも真実でもプロパガンダでもなく、ではそれはいったい何か?

– – –

今日は用事が無いので渋谷に映画を観に行く。寝坊して『アガタ』を逃してしまったので代わりにBunkamuraに行くと、キシェロフスキの『偶然』をやっていた。ダブリンで出会った、今ではもう音信不通のロシア人士官の友人と、ワルシャワで作家を目指している女の子(第一の物語の女の子によく似ていたので)を思い出す。Involveする、される、とはどういうことか?また選択における自由あるいは抑圧とは。ロシア人の彼が、チェチェン紛争の間まったくメールに返事してこなかった時にも、そう強く思った。この湾岸戦においてもだれがinvolveし、されているのか?私たちは、私はといえばどうか?

 

[3月21日(金)/2003] 沸騰

米で逮捕者1000人。数十万人のデモの人波が交通を遮断し、都市の手足を麻痺させる。テロルが害意と沈黙の行いとすれば、もう一つの方法は、鬨の声を上げ区々の扉から噴出する、煮えたぎる湯、激しい否定の意思表示だ。
東京では、「交通法」によって数十人か数百人に切り分けられて、何千人かの人々がおとなしく行進している。
異様なまでに冴えわたったイメージ。世界はまだ、巨大さと統合の幻想を装っているように見える。映像が硝子瓶のように清浄で私たちを毒さないので、雨や血に、濡れるものだということを、わたしたちはしばしば忘れてしまう。

 

[3月20日(木)/2003] G.B.B.

砂漠の国にふたたび、見当違いの鉄槌が打ち込まれる。
混乱と迷妄の砂塵。叫びを上げ血飛沫を吹く大地、そしてまた大地。無惨な刺し網に傷つく鳥と名の知も知らない神々。
理性は、この無惨な天秤は、遠い昔、豆を均等に分配するために与えられた、ほつれた二つの革袋に過ぎない。沈黙と饒舌と恥じらいもなく裏返った熱狂。どれもこの烏合の集団の中に見られる固有の振幅だ。法と盟約と卑劣な裏切りは、こうした腐って熱い糞壺の中で、ごくじっくりと養成されていく。
私たち一人一人が少しずつ参与して生み出した現実にまず絶縁することなく、どうして対抗のしようがあろうか?声を張り上げ、分別もなく興奮して街頭を練り歩くよりずっと以前に(実際のところ私自身もやってはみたが、行儀のいいスポーツか、または落ち着きを取り戻すためのサークルだ)。
真実や善や美や(少なくともそう信じられるところの)、もはやそういったものとはおよそかけ離れたところで回転を続ける世界の襟首を捕まえて、息が止まるまで締め上げること。つまりあなたや私の首を締め上げること。そうでなくて何ができるというのか?不意にテキサスの片田舎からでてきたあの恥ずべき乱暴者は、ほかでもない私たち自身の、ちょっとした贈り物を食らって大人に(すくなくとも皮膚の老化と、生殖可能だったという点からみれば)なったわけだ。

 

[3月18日(火)/2003] 種

午後から楊氏のデッサン研究会に出かける。今日は見学のためU君とR君もいる。ふたたび裸婦と着衣、とても美しいモデル。
線が纏まりつつあるときの感覚の冴えは、どこか絶対的な明朗さを帯びている。構築した後でいかに惜しげもなく消去できるか、このためには反復と言うよりも、異なる位置に異なる建築を作り始めると考えればよい。

 

[3月12日(水)/2003] 輪/螺旋

デッサンし - 書き、(輝く、白い、紙に。翼に。) - この狭い部屋の円卓の周りを歩き回る。
反復 - Deplacement - わずかに。それと知れずに。

 

[3月11日(火)/2003] 痺れ

少なくとも手を動かすこと。手の頼もしさは、生きる助けになる。

 

[3月8日(土)/2003] 無題

体調は7割方快復した。昼下がりに寝床から起き出して、近所のJ…まで歩く。もうすっかり暖かい。庭先の沈丁花が白と紫に盛り上がり始め、いつもより早い春を告げている。
本屋で地図を買い、表へ出ると、もう日が暮れていた。群青のなかのネオン、自転車のヘッドライト。細く打ち出した黄金のように、上弦の月が、青ざめた天蓋にぶら下がっている。眼前の世界に充満する色彩は、いつも涙ぐむほどに美しい(だからこそ私は、それを何かの方法で定着することを、完全に放棄しているのだ)。

– – –

3月2日以降、あたらしい方法で「地図」を描く試みを続けている。現在のところ、私の目論見はこの方法で東京近郊の「地図」を再構成することである。しかし、実際に始めてみると、あまりの複雑さにどこから手を着けてよいか全く見当もつかない。
まずは俯瞰的視点に戻って、ふつうの地図に私自身の「場所」と「行程」をマークすることから始めよう。

 

[3月3日(月)/2003] 無題

熱がぶり返して一向に引かないので病院に行ったら、花粉症の悪化によって併発した気管支炎だった。薬を10種類も処方される。ピクルスの胡瓜とかは、きっとこんな気分で漬け物にされるんだろう。採血室では注射に対する恐怖が顔ににじみ出ていたに違いなく、ベテランの看護士になだめられ、すっかり子供あつかいされるが、別に悪い気分ではない。

– – –

書く/ブルーのインクで/指を、青く染めて。

 

 

[3月1日(土)/2003] ブリキ – バケツ

だんだん重くなる花粉症と、昨日寝ていないために、激しい頭痛と発熱に見舞われる。脳の中で、放射性物質が発光している。『放射性猫』。スコグランド。まっすぐ歩けない。まるで身体がブリキみたいだ。

とにかく風呂に入ってから午前中は寝て、2時からは友人のK.H.氏が司会をつとめるシンポジウム「ハイレッド・センター再考」にでかける。
天内大樹氏は、ハイレッド・センターと川俣正を都市と郊外という観点から比較、伊藤達矢氏は実践の立場から、同時代の欧米の作家との比較を発表。ただ、どちらもハイレッド・センターの活動の一部を総括するにとどまり、その比較によって何を明らかにしたかったのか、論点がよく見えなかった。常々思うのだが、ふたつの作品や作家を比較する場合、そこには何らかの創造的動機がなければならない。また、実践の立場というのは、たとえばクリストと赤瀬川の梱包のどちらが先に始まって、どちらに影響を及ぼしたとか、そんな事を指摘する立場なのだろうか?
わたしとしては何よりも、60年代(遠い昔だ!)という時代の産物を2003年の今に召還することの動機が知りたかった。
3人目の橋本悟氏は「仕掛け」という観点からハイレッド・センターの活動を分析、また、中西夏之の絵画理論についての考察。若い頃の中西はやはりすごい。言葉と実践のバランスがいいのだ。X字に2色の絵の具をずらして描く方法についての考察、画布の上の円弧に関する話を面白く聴く。(そういえば、レンブラントの自画像の後ろに描かれていた円弧はなんだったんだろう?)
ディスカッションで質問したい事柄も何点か浮かんだが、表参道に用事があったのと、あまりにも体調が悪かったため早々に辞去する。

こんなに具合が悪い日には、O…駅前の「四川飯店」で、特別に辛くて濃厚な坦々麺を流し込むに限る。だが、閉まっていた。バケツをひっくり返したような雨、春の驟雨。ようやく家にたどり着くと、東京に洪水警報が出ていた。体調が戻ったら、明日、川を見に行ってみよう。

 

[2月26日(水)/2003] Babel

語りかける以前に、じゅうぶんな耳であるのか。
理性、という無惨な天秤なしに。
そして尚、疑いの傷を負ったその言葉を抱き留め、
ふたたび、みずから信じることができるか。
春の雨だれは、耳の中に降る、肋骨の中に。

 

[2月22日(土)/2003] 無題

一体、夜明け前の静謐と誰そがれの群青を取り囲んでいた、あの透き通った寒さは、どこへいってしまったのか。
心なしか池に鴨たちの姿が疎らになって、代わりに、赤いほっぺたのカイツブリが、すっかり冬枯れて漂白された葦のあいだを、ぺたぺた歩き回っている。
(冬が明ける、冬が明ける……)
春は、快復と更新、開始と混乱を比喩しながら、水の干上がった側溝から、灰色の辻々から、路地裏の行き止まりから、みるまに滲みだしてくる。
新しい苦悩の季節だ。
(いっそのこと渡り鳥のように、冬を追いながら、毎年半球を移動したらどうだろう?)

– – –

『バルテュスとの対話』(白水社)を読む。
質問者の権威主義的でみせびらかしに過ぎない紳士録的知識、えせ貴族主義的で鼻持ちならない世辞の群れに、画家の鋭い発話が台無しにされている。紙幅の大半が、くだらないへつらいに対する画家本人による辞退に費やされている。

 

[2月18日(火)/2003] 柏 – 横浜

午前中、柏の某酒造メーカーで撮影。お昼を抜いて大岡山へとって返し、関内へ。夕方からはデッサンの勉強、裸婦および着衣。いまのところ人体や顔なら何を描いても驚異的にたのしい。
それにしても、いまさら絵を始めることになろうとは……。手がついていかないことに(あたりまえ!)必要以上に焦燥を覚えるが、少なくとも次の一枚は前の一枚よりましで、今日よりは明日の方がものごとがよく見えるだろう、という単純な期待があるから続けていける。写真も。なんだってそうかも。

– – –

写真を一枚削除しました。実物のプリントは悪くないのに、HPにアップすると途端にひどくなる。

 

[2月13日(木)/2003] 昨日のつづき

意味内容からの離脱=抽象的表現の創造、という図式はあまりにも短絡的で、逆にいえば、現実世界を意味内容に置換することで理解したつもりになっている、わたしたちの、慣習による認識を暗に容認していることになる。むしろ、全ての構成的要素を排除して現実に立ち返り、現実と「写し出されたもの」との差異を繰り返し明らかにし続けることによって、わたしたちの慣習的な現実認識を破壊することこそが、写真にとっての本質的な使命なのではないか。

 

[2月12日(水)/2003] モホリ・ナジ

モホリ・ナジは、「写真における現実」について、次のように述べていた。

「カラ-バル-ルの真の力学的表現は、直接の光の展開による継続と構成が、純粋な光学的法則と視覚的基礎によって統一されることによって創られる。……写真や映画の中の一般の写実的幻想の意味から切り離されるところにいくまでには、多くの時間を要することであろう。…… そこでは、色彩は物体をあらわすサインやシンボルとしではなく、それ自体が本来の形として理解されることになるであろう。このように内容からはなれて光による色の形を創造することは、たぶん抽象的な映画や静力学的なカラ-・フォトグラムの方向に発展させていくことができるであろう。」

しかし、ナギの限界は写真における現実を「光による色彩の形の創造」に還元しようとしたことだ。「カラー写真」は、全く「再現的」ではない。印画紙上に定着された色彩が現実の色と同じに見えるのは、わたしたちの慣習による理解に過ぎない。

 

[2月11日(火)/2003] magenta

輝くマジェンタは、暮れ時の梅の枝だ。
湿った土のいきれに猫の小便の匂いが薄く混じって、公園の砂の上を漂っている。
半月もすれば、コンクリの継ぎ目からはこべの芽が吹き、S…池の鴨たちはふたたび旅だってゆくだろう。
わたしは春が憎らしい、歓びや悲しい記憶、身の奥を灼く熾火のような焦燥、躊躇いや情欲が、一どきに融け出すから。

 

[2月9日(日)/2003] Grance

疾走する列車の窓から、通過駅のプラットフォームに立つ人と眼が合う瞬間。髪を掻き上げる動作を一瞬凍らせる、その何秒後かには、もう遠く離ればなれになっていて、それなのにひどい動揺を覚えて、わたしは(わたしたちは、たぶん)思わず目を伏せる。言いようのない恥ずかしさや後ろめたさに襲われるのは、わたしたちのまなざしが、その刹那あまりにも裸であったためだ。

まだ幼かったころ(幼稚園か小学校の最初くらいだったと思う)、テレビのアナウンサーが自分を見つめているように感じ、本当にこちらが見えているかどうか試すために、不意に手を挙げてみたり、思い切り変な顔をして笑わせようとしたり(その顔は必殺の威力を誇っており、にらめっこでは私に輝かしい無敗をもたらしていた)、左右に跳躍してみたり(実際、わたしの位置が変わっても、アナウンサーのまなざしはいつまでもわたしを追うように見えた)、色々とやってみたものだ。

ところでこのふたつのまなざしは、それぞれ全く異なる意味合いを持っている。前者は此岸(=生者)のまなざしであり、後者は彼岸(=死者)のまなざしである。実生活において、まなざしとは常にただひとつの対象と向かい合っている。たとえばあなたは、二人の人間と同時にまなざしを交わすことはできない。しかし、間接的に定着されたまなざし(絵画、彫刻、写真、映像、すべて)は誰に向かうともなく、見るもの全員に同時にまなざしを返してくる。
ダゲレオタイプの驚くべきアウラも、たぶんこの「彼岸のまなざし」の強度に由来していると思う。
長時間露光によって顔の輪郭はぼやけ、それによっていっそうまなざしは死者(= anonymous)に近付きつつある。 一体どうしたら、このまなざしの強度に到達できるか?

 

[2月4日(火)/2003] (無題)

長いあいだ、どうして自分がマン・レイの写真に惹かれるのか、わからなかった。多分、ソラリゼーションの中に島のように取り残されたリー・ミラーの肌や、若きジャコメッティのまなざしの恐るべき現存性だとか、要するにそれは、スタイルの荒れ野に偶然取り残された植物の美しさなのだ。

– – –

今日もこれから深夜までプリント。寒いと暗室が億劫でしかたないが、それは怠惰の言い訳に過ぎないので、酒でも飲んで無視するに限る。

 

[2月3日(月)/2003] lotus

かえり途で買った蓮の花が、思いがけず匂う。
(ハノイの蓮は、けっして開きはしなかった。宿の重たい空気の底で、蕾のまま朽ちて、外側から一枚ずつ剥げ落ちていくのが、何ともいえず悲しかった。(私はといえば高熱に見舞われて、むらさき色に萎れた花びらを見つめながら、シーツの中で震えていたのだ。))

– – –

豆を歳のぶんだけ食べ、残りを戸口に撒く。
近所迷惑にならないよう、できるだけ凄みのある小声で、ささやくように呪文を唱える。

 

[2月1日(土)/2003] 無題

夕方4時過ぎから、プリントを始める。今日は暗室にもヒーターを入れたので、膝や指先が凍えずに済み、作業が非常にやりやすい。9時ぐらいになっただろうか、と思って暗室から出ると、すでに11時半を回っていたので驚く。あたらしい現像液を温めているあいだ、この日誌を書いている。

今日は手紙が一通。それから、古書店に注文しておいた絶版の本、ジャコメッティの『わたしの現実』が届く。プリントの合間に、ヤン・シャオミン先生に電話して、デッサンを教えてもらう約束をする。

 

[1月30日(木)/2003] reaction

O..駅の反対側にある魚屋では、いつも、トロ箱一杯の水にエア・ポンプを入れて、新鮮なアサリを売っている。白熱灯に照らされて長いあいだ見つめていると、時折、思いがけずさらさらと砂を吐いたりする。
生命とは応答/reactionすること、不意にそんな考えがうかぶ。
牡蠣やウニのようないきものでさえ、呼びかけに対して、固い殻の内側で、ごく簡素に応える方法を持っている。いそぎんちゃくを指で押すと、全身の筋肉を縮めてけなげにも応えようとするので、わたしは彼らを愛することができるのだ。

 

[1月28日(火)/2003] 無題

昨晩たくさん降ったので、世界が、泣き腫らしたような清浄さに満たされていた。初夏のような暖かさ、そして光。

 

[1月5日(日)/2003] 無題

ひさしぶりに、休日らしい休日。朝からフィルム現像9本。エリック・ホッファーの『波止場日記』。Sに貰った、北海道土産のラーメンをゆでる。

 

[1月4日(土)/2003] 無題

Rに誘われ、Uと3人で、フィリップ・ガレルの「白と黒の恋人たち」のレイト・ショーを観るため渋谷へ。
人物の仕草、表情、たなびく黒髪、そして何よりもモノクロのフェルトの様なやわらかな手触りに集中するうちに、不安で孤独な気分(大部分は今朝の手痛い失敗のせいだと分かっている。それから、また、……)は薄れていった。

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