冬の日
祖父の命日の二日前、25日夜、母方の祖母が逝ってしまった。スタジオで終わりの見えない作業をしている最中、父から知らせがあった。しばし考えがまとまらなかったがとにかく帰ることにした。 実家に入っていくと祖母の寝室で、ベッドを囲んで母と父と弟が動かない祖母を三方から取り囲んで黙って座っていた。点滴と酸素吸入器はそのままになっており祖母の口は開いたままだったが、医師がまだ到着しないので手を触れられないという。亡くなってはいても喉が渇くだろうと可哀想に思ったが、なす術もなく見つめるほかなかった。母が介護の手を休めて食事をするあいだ、ほんの二十分かそれくらいの間に、誰にも気づかれず静かに息をひきとったというのだから、それは安らかな最期なのだろう。 やがて訪問介護施設の医師が到着し、死亡時刻を告げてから、看護師がペットボトルのキャップに穴を開けた即製のシャワーで吐瀉物で汚れた髪を清めてくれ、お騒がせしました、いってらっしゃい、と祖母に頭を下げて帰っていった。私よりも二つ三つ年若そうな彼の様子に心を打たれながら、自分は一年か二年の在宅介護のあいだほとんど何もしようとしなかったのだ、一年というもの、ほとんど会話らしい会話も試みようとしなかったではないか──そのように後ろ暗い思いをふるい落とすことができずにいる。いや、そもそもそれ以前にも、きちんと会話できたことは一度でもあったのだろうか、とまで考えながら、子どものころ私の避難所だった祖母の部屋や、説教くさい少年少女文学全集を読み聞かせてくれた彼女の声の調子や、ミシンの音、マドレーヌを焼くにおいなどを少しずつ記憶の奥から拾いあげては、締めつけられるような懐かしさと、身内という存在の永遠に解きえない謎の間を、心が行きつ戻りつするのをただ見てていた。 翌日からのたくさんの約束を全部キャンセルして、連日の徹夜作業から泥のように眠った。翌朝起きると夜半に葬儀屋が来て祖母の床を整えていったという。口は閉じられていたが、末期の水をとらせて線香を上げて、頭部に触れると思いがけずまだぬくもりが残っていた。 今日は大阪で国立民族博物館の研究会があり、発表者は私一人の回だったので休む訳にもいかず飛行機をとって日帰りで往復することにした。 きょうが祖父の命日だったろうか。朝、刻々と地平線から高度を上げる太陽に直射されながら東へ、羽田へ車を走らせた。日航の工場長だった祖父は、こうしてその貌を朝日に灼かれながら日々、玉堤通りを走ったのだろうか。幼いころ何度か連れていってもらった日航のテニス場やプールの思い出は、彼の運転する小さな三菱コルトの窓から差し込む、黄ばんだ太陽の光と熱の感覚とともに、記憶の襞に強烈に現像されている。 伊丹空港行きの全日空は満席だった。離陸すると多摩川の河口と空港のランウェイと品川、そしてはるか新宿のビル群までがはっきりと展望された。眼下の都市部はすぐにまばらになり、と思えばすでに富士の裾野に差しかかっているのだった。山の峰は直視できないほど白く燦然と屹立し、関東平野から甲府盆地、日本アルプスの峰々のなかにあって比類無く、見渡せる限りの地形を完全に支配しているのが見て取れた。 人は死ぬとどこへいくのか──宗教を信じない私は何度も、想像しようとする。 たとえば遠野の人々は、みな早池峯の頂へと帰るのだという。魂は、あるいはエネルギーは山岳の頂点まで登ってそこから虚空へ、宇宙へ細い光の帯となって解き放たれるのだろうか。あるいはそれは拡散しながらこの惑星の一つなるマトリクスに留まり、いつかふたたび、異なるエネルギーの様態となって流転を続けるのだろうか。 いま、大阪から帰って書いている。きょうは葬儀屋がまた来て、湯かんという儀式をし、衣装を整え化粧を施して帰ったらしい。私はまだ会っていないけれど妻が代わりに、足袋をはかせたり、儀式に立ち会ったりしてくれたという。一昨日からの冷え込みは今晩も収まる気配はない。空気は恐ろしいほど澄んでいて、上弦の月の傍に一等星が近づいている。