連載/続「百の太陽を探して」#6
百の太陽を探して 北アメリカ(七)デイトンの亡霊たち/前編 新井卓 (『小さな雑誌』81号(2015年)より転載) 二〇一四年秋、東京からオハイオ州デイトンへ飛んだ。暦が一日戻って、アメリカに入国したのは九月十一日だった。 空港でレンタカーを拾って、ライト=パターソン空軍基地へ。ハイウェイに沿って、ぽつりぽつりと星条旗が翻っているのが遠くまで見え、そのどれもが9.11を悼んで半旗になっている。秋の淡い青空の下で、街はこうべを垂れ祈っているのか、半分眠っているのだろうか。 デイトンはマイアミ・ヴァレイの中心都市で、ライト兄弟の出生地として知られている。丘がちな土地に街区と農地が平坦に拓かれていて、中心都市とはいっても、これといった産業もないのどかな街である。 街の何分の一かを占める空軍基地の一角に、世界最大の航空博物館、国立アメリカ空軍博物館が置かれている。その三六〇機を超える膨大なコレクションの中に、B-29重爆撃機・通称<ボックスカー>があった。 一九四五年八月九日未明、機長のチャールズ・W・スウィーニー少佐率いる乗組員は<ボックスカー>でティニアンを出発、長崎上空で午前一〇時五八分(*1)に原爆<ファットマン>を投下した。 二〇一一年の福島から時間の糸を逆に手繰って、長崎の時計の次にたどりついた遺物(モニュメント)が、この<ボックスカー>だった。この爆撃機を多視点のダゲレオタイプで撮影することが、今回の旅の目的である。 デイトン滞在にあてた一週間は毎日、開館から閉館まで空軍博物館で過ごした。 館のコレクションは時代毎に分けられ、それぞれ一つの巨大格納庫に陳列されている。ライト兄弟のミリタリー・フライヤー、カプロニのCa3木製爆撃機に始まり、両大戦を経て冷戦時代へ──最後は円筒形の建屋(サイロ)に、アポロ計画の展示とともに、退役したICBM(大陸間弾道ミサイル)が並んでいた。サイロの漆黒の闇の中に数十メートルのICBMが何柱も屹立している姿は、あまりにも終末的な光景(アポカリプティク)だった。 戦慄し、わけもなく涙が出てくるのを押さられなかった。それがもし畏怖の念、というものならば、神や信仰という観念は、無用にされてしまったのだろう。ギリシャの神々の名前を冠された、これらの殺戮兵器によって。 ICBMのサイロから<ボックスカー>に戻ってくると、機首に描かれたポップなイラスト(ノーズ・アート)や昔のアメ車を思わせる流線型の機体はすっかりノスタルジックに見え、どこか微笑ましくさえあった。ICBMとB-29のあいだを往復しながら、何日も見続ける視線は銀色に輝く<ボックスカー>の表面を上滑るばかりだった。 沖縄をのぞけば、日本人の時計は敗戦の瞬間から止まっていたのかもしれない。 戦後七〇年という時間のあいだに、途切れることなく戦争はつづき、その度に、殺戮のテクノロジーは取りかえしのつかない程先に進んでしまったのだ。 ICBMの発射解除コードは、ながらく八桁の「ゼロ」だったという。〇〇〇〇〇〇〇〇……どこまでもつづくゼロは、広島の、長崎の、死者たちの時間なのか。あるいは空の千の太陽のごとく輝けるヴィシュヌの降臨によって、ついに諸世界が回収されるという、来たるべきその日の神話とでもいうのだろうか。(*2) *1 ボックスカーに同乗した原爆取扱責任者アツシュワースの記録による。 *2 インド叙事詩『マハーバーラタ』中の『バカヴァット・ギーター』(神の歌)マンハッタン計画を指揮した物理学者、ロバート・オッペンハイマーが度々引用している。 T-33Aジェット練習機のマケット、国立アメリカ空軍博物館、デイトン、オハイオ州 銀板写真(ダゲレオタイプ)、7×18cm、2014