2021年1月6日, 竹橋, 東京
長年撮るうち、都市で自分を見えなくする方法が自然と身についている。街にあって移動は目的たりえないので(旅行者を除いては)、所々に人々が踏みこまない変な隙間があり物陰の水たまりのように静まりかえっている。そこに身体を滑り込ませて三脚を広げ、ピントグラスから向こう側をうかがう。
新聞社のビルからダークスーツの痩せ男が降りて来、顔面から無造作にマスクをもぎとりながら、もう片方の手でスマートフォンをとり出す。身体のいくつかの部分が一度に別々の方向に動かされたので男はよろめき、バランスを取り戻すため頭部をのけ反らせて直立する。
ふと、哀れな、と思う──男のありさまについてではなく、そうするあいだにも彼の姿が銀板にうつしとられ、二百年の時空を超える像を結んでしまうことについて。「TOKYO 2020」の寒々しいロゴとタイポグラフィは人間にとってもはや情報と現実(いくつもの)の区別などどうでもよくなったのだと──あるいはほとんどの価値が現実から情報へ移譲されたのだと──あけすけに告げるように見える。やがて物理媒体によって映像を記録・保持することは社会秩序を乱す行為と考えられるようになり、またデジタル映像の法的寿命が制定されるだろう。モノとしての映像から乱反射する価値のスペクトラムはヒトの社会においてもはやノイズにすぎない。
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