December 2010

You are browsing the site archives for December 2010.

[23-12-2010] 落差のない滝 午後から明治大学生田キャンパスにて「光、礫、水」展のための作業。8×10のモノクロに変なことをして10カットほど撮影する。 懸案だったオブジェの配置は、予想したよりもいい感じに異様な雰囲気になった。今回の展示は、きわめて精密かつシリアスな悪戯です。   [22-12-2010] 青森、ルワンダ、斑女 冬至になった。すべてが透明な音をたてて、陽に転回しはじめる季節。 先週末、京都造形芸術大学/時代の精神展『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』を見るため日帰りで(というか飲みすぎて朝帰りになってしまったけど)京都へ。 すでに写真集で見た写真とテキストではあったが、天井の高いルクソール宮殿みたいな空間に、等間隔に立ち並んだ大判のポートレイトは圧巻だった。ポートレイトの横には小さなパネルが掛けられていて、ひとつひとつ女たちのモノローグが印刷されている。写真を見る、という行為そのものを変容させる展示だと感じた。 一組のテクストと写真を見るためには、およそ10分くらいの時間がかかる。ふつうの写真の展示空間では、身体の横方向への移動が、見る体験の「浅さ」の感覚をつくりだしているが、この展示には深さと高さがある。林立するモノリス、沈黙のうちに充満した言葉の群れ。素晴らしい仕事だと思った。 先週は京都行きを挟んで、目黒アピア40で念願の友川カズキのライヴ、喜多流の能楽定期公演「斑女」「黒塚」など。   [21-12-2010] Reunion 週末、久しぶりにいつもの「大樽」で写真学校の同級生と集まった。 ぜんぜん変わらない。ほんとはみんな変わりつつあるはずだから、変わらないという感覚は不思議だ。おなじ時間を共有し、貧乏とか恥ずかしいことを共有している友だちの間には「無条件」という接頭辞がいつもついてくる。だから会うとついつい飲みすぎる。   [15-12-2010] 礫 一月の展示で使う石を切ってもらうため、近所の石材工場を訪ねた。入口からは見えなかった巨大な空間にたっぷりと外光が注いでいて、もうもうと立ちこめる石の粉塵が、神話的な感じを漂わせている。 私が住んでいる川崎中部の府中街道沿いは、高度成長期時代に中小工業の生産拠点として発展した。ずいぶん数は減ったが、今でもすこし路地を入るとその風景が残っている。 スレート色の工場には人の気配が満ちていて、その目立たないひとつひとつの箱の中で、ネジや金型、板バネ、シートベルト、ふとんの中綿や人工衛星のモーターなどが作られている。それらは決して人の眼に触れることなく、私たちの知らない流通網を辿って、既製品の見えない内奥へと送り届けられるものたちだ。 既製品でつくられた世界は多様に見えて、実は有限のバリエーションで区切られた密室にひとしい。いまのところ生活の安定とか向上とは、世界の貧困さを許容すること(受動的に、または半ば積極的に)によって達成されている。 ものを作ることは、物質と交感することである。 みかけの「貧困さ」の方へ。手の貧弱さから始めるということ。   [28-11-2010] 栄力丸ダゲレオタイプ/複製プロジェクト(1) 修復家の三木麻里さんと待ち合わせ、川崎市市民ミュージアムへ。 m-miki来年の展覧会に向けて、川崎市所蔵・栄力丸ダゲレオタイプ2点のレプリカ製作の作業が始まった。三木さんが細心の注意を払いながらハウジングを開け、私は作業過程ごとの写真を記録。最後に、レプリカを作る際のポジとして使用する画像を撮影した。 これから三木さんはハウジングの修復とレプリカ用の新たなハウジングの製作、私は銀板へ密着焼きするためのデジタル・ネガ(正確にはポジ像)のテスト制作に移る。 160年の時を超えてハウジングから取り出されたダゲレオタイプは、経年による部分的なターニッシュ(変色)によって、宝石のオパールのような虹色になっていた。写された男たちは不安とも安堵ともつかない曖昧な表情を漂わせ、それでも確固とした尊厳に支えられているように見える。ミニアチュアの魔術によって封じ込められた魂が、銀板のなかでひっそりと息づいているみたいだ。 高解像度で入力したデジタル画像を観察していて、ひとつ発見があった。男の目に、黒い台形のかたちが見えその周りにハイライトが入っている。斜めに作り付けられたガラスの天窓と明るい採光のダゲレオタイプ・スタジオ、そのシルエットだろうか? 眼の中の影像に、ひとつの時空が凝集している。それは艶やかなブラックホールのように、裏返しに世界を包摂している。 追記)栄力丸の船員は52日間の漂流ののち「オークランド号」に救出され、その後別の船上で撮影された、との記録もあるので、シルエットは船上の何かを映し出しているのかも知れない。   [27-11-2010] ルワンダ・ジェノサイドから生まれて 午前中、明治大学生田キャンパスにて1月の展示の打ち合わせ。 今回はダゲレオタイプ、映像、そして立体による展示を構成する予定で、そのなかでも重要なのがギャラリーに隣接する図書館書架を使用した”Replacement”と名付けたインスタレーションだ。諸事情あって実現への道のりは険しそうだけれど、この要素を欠いた展示は成立しない。なんとか理解を得られることを祈るのみ。 夜はAKAAKA舎へジョナサン・トーゴヴニク氏と竹内万里子さんによるトークを聴きにいく。写真集『ルワンダ・ジェノサイドから生まれて』日本語版の刊行と現在京都造形大で行われている個展に合わせ、写真家が来日した。感動的なプレゼンテーションだった。 初めてこの写真集のオリジナル版を目にしたとき、端正な装丁、ルワンダの母子をシンプルにとらえたポートレイトと、原題の”Intended Consequences: Rwandan Children Born of Rape”というダイレクトに暴力の存在を告げるタイトルとがうまく頭の中で一致しなくて、混乱したのを覚えている。 トーゴヴニクが撮影したモデルは、ルワンダで90年代初頭に起きたジェノサイドの渦中、民兵によって暴力や性的暴行を受けた女性たちと、そのレイプの結果生まれた子供たちである。写真家は、それぞれの女性と数時間にわたる対話を行い、その後彼女たちが暮らす家の近隣で撮影を行った。母子はそれぞれにカメラをまっすぐに見つめ、無数の言葉が凝縮されたような沈黙の表情のなかに、静かに佇んでいる。 母子はとてもよく似ている。まさにその似ている、という事実が、引き裂かれるような複雑な感情を呼び起こす。何組かのインタビューを読み、ポートレイトを見ていけば、はじめは不意に叫びたくなるかも知れない。しかし写真家は決して叫んだり、声高に訴えたりすることなく、低い声で語り、距離を計り、見つめ耳を傾けつづける。その仕方は、とても強い。穏やかに語りかける「声」の写真集。   [19-11-2010] Lights ジョエル・マイエロヴィッツみたいな夕暮れ。 空気が、固くて透明になっている。   [03-11-2010] fluxsus 先週末、遠野への旅から戻った。 今回は遠野市西部の山地、とくに古生代の残丘(モナドノック)である早池峰南麓をくり返し訪ね、十数点の「滝」のダゲレオタイプを撮影した。 滝とは固有の<もの>ではなく、現象/状態を表すことばであり実体がない。宇宙が生成してから消滅するまで、決して繰り返されることのない水の落下、その反映が銀板のおもてに降り積もり、ただ一片の積分された映像が顕われる。 遠野から持ち帰ったダゲレオタイプは、来年1月14日から24日にかけて、明治大学生田キャンパス図書館、および併設された展示空間のGallery Zeroにて行われる個展で発表します。 http://www.lib.meiji.ac.jp/about/exhibition_zero/index.html このプロジェクトは、滝という現象と、鏡面の映り込みによって常に生成流転するダゲレオタイプの映像に注目したまったく新しい展示になるはずです。 — 今度の旅では遠野の色々な人のご厚意に触れ、全力で制作に集中することができました。特に作業場所を快く提供してくださった早池峰ふるさと学校の佐々木さん夫妻、藤井さん、数々のレアな情報を教えていただいた民宿「御伽屋」のご主人に心から感謝します。   [24-10-2010]…