Essay

リサーチ・ノート:千羽鶴・千人針 新井卓 (1) 戦争や災害にまつわる場所に捧げられ、病気の快癒や長寿を願って個人に贈られる千羽鶴の習俗は、太平洋戦争後、広島の原爆被害によって亡くなった少女、佐々木禎子から広まったとされる。1954年8月6日、2歳で被ばくした禎子は十年後の昭和30年(1955)に白血病が判明、広島赤十字病院に入院する。入院中、見舞客や入院患者に、折り鶴を千羽折れば元気になると教えられ、禎子も折り始めたという(2)。はじめ〈当事者〉である禎子が自身の延命を願って折った千羽鶴は、禎子の物語とともに国内外に広く知られるようになり(3)、いつしか〈非当事者〉が〈当事者〉へ捧げる記念物、国民的習俗として定着するに至った。現在、禎子をモデルに作られた広島平和記念公園の「原爆の子の像」には、国内外から年間約1,000万羽、重さにして10トン以上の折り鶴が届けられるという。(4) 民俗学者のジャック・サンティーノは、人々が感情に衝き動か

連載/続「百の太陽を探して」#11

百の太陽を探して 北アメリカ(十二)カボチャの名前/後編 新井卓 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.87掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2019/11/21) 2014年11月7日、映画『49パンプキンズ』(※)「爆撃」シーンの撮影のためテキサス州サンアントニオから、ジョージタウンへ車を走らせる。バンの助手席では、撮影クルーのエリックがなにやら朝食の算段をしている。薄暮時に全天を覆っていた雨雲は、日が昇るにつれ、地平線の彼方にくっきりとした境界線を引きながら、薄曇りの空へと置き換えられていく。 まだ明け方の冷えが残る町営飛行場で、<デビルドッグ中隊>のメンバーがB25重爆撃機・通称<デビルドッグ>に給油を始めるところだった。1時間弱の飛行で、エンジンオイルとガソリンにおよそ二千ドルがかかる。それでも私たちはこの燃料代を負担するだけ

連載/続「百の太陽を探して」#12

百の太陽を探して 福島(一)近づくこと、遠ざかること/前編 新井卓 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.88掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2020/8/11) 南相馬では、鹿島区の農家民宿「森のふるさと」に逗留することに決めている。毎朝毎夕の豪勢な食事と森夫妻との晩酌が楽しくて、つい他の場所に滞在するのが億劫になってしまった。以来一人で旅するときも、友だちを案内するときも、いつでも「森のふるさと」である。 森家は柚木地区の小高い段丘の中腹に建っていて、それで津波の被害を免れた。眼下に広がる水田は津波の被害と放射性降下物の影響で作付けができない(※二〇一五年当時)。森家の水田では、かつて評判だった有機米の代わりに女将のキヨ子さんが染織に使う藍を育てている。 二〇一五年四月下旬、開通したばかりの常磐道を通ってもう何度めになるか分からない「森のふるさと」に向かった。常磐道には、いわきから相馬までのところどころに空間線量を表示した電光板が立っている。高いところで、毎時4.7マイクロ・シーベルト。ダッシュ・ボードに置いたガイガー・カウンターが耳障りな警告音を鳴らし始めた。 震災後ずっと心を支配していた恐怖と激しい憤り。あれほど強く日常を塗りつぶしていた感情は、いつの間にどこへ消えてしまったのか。福島以後の日常にすっかり慣れてしまった自分に対して私は焦りと苛立ちを覚えていた。危機の感覚が確実に失われていくいま、たとえば福島第一原子力発電所へ──出来事の中心に近づいていけば、何かが変わるのだろうか?その答えはおよそ明白ではあったが、それでも私は私自身の身体をそこへ、すべての中心へ向かわせる必要があった。 福島第一原発の現状をこの目で見るため、当初は接近可能な地点から無線操縦機(ドローン)を飛ばして撮影することを

Oct 3, 2014, Pumpkins, Artpace Sun Antonio

サン・アントニオのカボチャ、2014年10月3日(「毎日のダゲレオタイプ・プロジェクト」より) ダゲレオタイプ(銀板写真)、6x6cm Oct 3, 2014, Pumpkins, Artpace Sun Antonio. Form the series of Daily D-type Project, Daguerreotype, 6x6cm   百の太陽を探して 北アメリカ(十一)カボチャの名前/中編 新井卓 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.86掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2019/9/10) アメリカ、テキサスでは、大の大人たちが揃ってなにか仕事しようというとき、とりあえずジョークの一つも飛ばさなければなにも始まらない。そんな風なので、大して流暢に英語も話せない私は、滞在当初ずいぶん戸惑うことになった。 日本に落とされた二発の原爆にはそれぞれニックネームがつけられていた。リトル・ボーイ(チビ)とファット・マン(太っちょ)。広島に爆弾を投下したB29にはエノラ・ゲイの愛称がつけられたが、これは機長ポール・ティベッツの母親の名前である──これら兵器の馬鹿げた名前と、未曾有の大量殺戮行為。あまりにも理不尽な落差に、怒りを通り越して、その異様な気楽さはいったいどこから来るのか、私はその理由を知りたいと思った。

同人誌『小さな雑誌』緊急寄稿文 いま〈前衛〉であるために──表現者は守られるべきか 新井卓   去年の六月、東京のゲーテ・インスティテュート・ジャパンで「1968年─転換のとき:抵抗のアクチュアリティについて」を観た。とりわけ印象に残ったゲルド・コンラッド(Gerd Conradt)『Farbtest – Die rote Fahne(カラーテスト─赤い旗)』(一九六八)、岩田信市『THE WALKING MAN』(一九六九)のほか、ゼロ次元のパフォーマンスを記録した映像、加藤好弘『バラモン』(一九七一〜一九七六)があった。 かつて、愛知県警に守られゼロ次元による路上全裸パフォーマンスが行われた名古屋で、五年前、鷹野隆大氏のヌード写真作品が刑法一七五条(わいせつ物頒布等の罪)に問われ、警察から撤去を命令される事件が起きた。

百の太陽を探して 北アメリカ(十)カボチャの名前(前編) 新井卓   (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.85掲載原稿より転載) ──一発の原子爆弾で街が見渡すかぎりの焦土と化した翌年、広島では、カボチャが不思議によく採れたのだという。 敗戦間際、アメリカ最新鋭の爆撃機・B29は、ときおり不可解な小数行動をとることがあった。おおかたは偵察と思われたが、まれに、凄まじい威力の爆弾を一発だけ、投下することがあった。 敗戦の前日、八月一四日に春日井に落とされた爆弾について調査していた市民団体は、米軍の出撃記録に当日のデータがないことに気づく。それは、マンハッタンプロジェクトの一環として、

百の太陽を探して 北アメリカ(九)ミセス・レイコ・ブラウン 新井卓   (『小さな雑誌』83号(2015年)より転載/編集・加筆あり) 光の、白い、緩慢な爆発──ブラインドを斜めに貫く陽光によって鋭角に切り刻まれ、テキサス州サン・アントニオの朝は、こうしていつも唐突に幕をあける。 みるまに上昇する外気温に追い立てられるように起き出し、コーヒーを淹れ、まぶしい真夏の戸外へ、無理矢理に身体を投げ出す。この日、サウスウエスト工芸大学の社会人向けの陶芸教室で人に会う約束があったから、遅刻するわけにはいかなかった。 明るい陽光が一杯差し込む教室では、七、八人の男女が作業台やロクロに向かって、めいめい作品作りに没頭していた。 「タカシさん?あなた!ずいぶん待ったのよ!」 日本語の大きな声に驚いて振り向く。淡い色の瞳で、カラフルな開襟シャツを着た彼女は、ひと目ではとても日本人と分からない風貌だった。よく通る声で話す彼女は、終始にこやかで、全身から何か強烈な陽のエネルギーを放射しているかのようだった。約束の時間にはぴったりのはずだったが、念のため遅くなったことを詫びてから、作業用の椅子に腰掛けた。陶芸家の彼女は、足を悪くして一度は引退を考えたものの、長年の友人であり工芸大で教えるデニスの強い勧めもあって、今もこの教室で制作を続けている。

百の太陽を探して 北アメリカ(八)デイトンの亡霊たち/後編 新井卓   (『小さな雑誌』82号(2015年)より転載) 二〇一五年秋、長崎に原爆を投下したB-29・通称〈ボックスカー〉を撮影するため、国立アメリカ空軍博物館を訪れた。オハイオの連なる段丘は初秋の光に美しく輝いていたが、わたしの目的地は巨大な、薄暗い格納庫(ハンガー)である。デジタル・カメラで〈多焦点モニュメント〉ダゲレオタイプに使用するイメージを何千枚と撮影するため、滞在期間は一週間ほどになった。

8月6日, 覚え書き

2016年5月27日、現職の大統領として初めて、バラク・オバマが広島の地を訪問した。 その日、よくわからない衝動に駆られて始発の新幹線に飛び乗った。クスノキが清々しい香気を発散する朝、何のあてもないまま、平和公園でひたすら大統領の到着を待つ。規制線は予想以上に長く、対岸から慰霊碑を垣間見る隙間さえ許さないほど厳重だった。

A Maquette for T-33A, National Museum of US Air Force, Dayton, Ohio. 2014

百の太陽を探して 北アメリカ(七)デイトンの亡霊たち/前編 新井卓   (『小さな雑誌』81号(2015年)より転載) 二〇一四年秋、東京からオハイオ州デイトンへ飛んだ。暦が一日戻って、アメリカに入国したのは九月十一日だった。 空港でレンタカーを拾って、ライト=パターソン空軍基地へ。ハイウェイに沿って、ぽつりぽつりと星条旗が翻っているのが遠くまで見え、そのどれもが9.11を悼んで半旗になっている。秋の淡い青空の下で、街はこうべを垂れ祈っているのか、半分眠っているのだろうか。 デイトンはマイアミ・ヴァレイの中心都市で、ライト兄弟の出生地として知られている。丘がちな土地に街区と農地が平坦に拓かれていて、中心都市とはいっても、これといった産業もないのどかな街である。 街の何分の一かを占める空軍基地の一角に、世界最大の航空博物館、国立アメリカ空軍博物館が置かれている。その三六〇機を超える膨大なコレクションの中に、B-29重爆撃機・通称<ボックスカー>があった。 一九四五年八月九日未明、機長のチャールズ・W・スウィーニー少佐率いる乗組員は<ボックスカー>でティニアンを出発、長崎上空で午前一〇時五八分(*1)に原爆<ファットマン>を投下した。 二〇一一年の福島から時間の糸を逆に手繰って、長崎の時計の次にたどりついた遺物(モニュメント)が、この<ボックスカー>だった。この爆撃機を多視点のダゲレオタイプで撮影することが、今回の旅の目的である。 デイトン滞在にあてた一週間は毎日、開館から閉館まで空軍博物館で過ごした。 館のコレクションは時代毎に分けられ、それぞれ一つの巨大格納庫に陳列されている。ライト兄弟のミリタリー・フライヤー、カプロニのCa3木製爆撃機に始まり、両大戦を経て冷戦時代へ──最後は円筒形の建屋(サイロ)に、アポロ計画の展示とともに、退役したICBM(大陸間弾道ミサイル)が並んでいた。サイロの漆黒の闇の中に数十メートルのICBMが何柱も屹立している姿は、あまりにも終末的な光景(アポカリプティク)だった。 戦慄し、わけもなく涙が出てくるのを押さられなかった。それがもし畏怖の念、というものならば、神や信仰という観念は、無用にされてしまったのだろう。ギリシャの神々の名前を冠された、これらの殺戮兵器によって。 ICBMのサイロから<ボックスカー>に戻ってくると、機首に描かれたポップなイラスト(ノーズ・アート)や昔のアメ車を思わせる流線型の機体はすっかりノスタルジックに見え、どこか微笑ましくさえあった。ICBMとB-29のあいだを往復しながら、何日も見続ける視線は銀色に輝く<ボックスカー>の表面を上滑るばかりだった。 沖縄をのぞけば、日本人の時計は敗戦の瞬間から止まっていたのかもしれない。 戦後七〇年という時間のあいだに、途切れることなく戦争はつづき、その度に、殺戮のテクノロジーは取りかえしのつかない程先に進んでしまったのだ。 ICBMの発射解除コードは、ながらく八桁の「ゼロ」だったという。〇〇〇〇〇〇〇〇……どこまでもつづくゼロは、広島の、長崎の、死者たちの時間なのか。あるいは空の千の太陽のごとく輝けるヴィシュヌの降臨によって、ついに諸世界が回収されるという、来たるべきその日の神話とでもいうのだろうか。(*2) *1 ボックスカーに同乗した原爆取扱責任者アツシュワースの記録による。 *2 インド叙事詩『マハーバーラタ』中の『バカヴァット・ギーター』(神の歌)マンハッタン計画を指揮した物理学者、ロバート・オッペンハイマーが度々引用している。 T-33Aジェット練習機のマケット、国立アメリカ空軍博物館、デイトン、オハイオ州 銀板写真(ダゲレオタイプ)、7×18cm、2014