竹田信平×新井卓: MONUMENT – ANTI – MONUMENT (1)

2011年の震災後アーティストの竹田信平君と、「モニュメント」(新井)と「アンチ・モニュメント」(竹田)をめぐる対談をおよそ隔年でつづけている。
コロナ禍のため、滞在中のティファナからデュッセルドルフの自宅に帰れなくなった竹田君の提案で、ヴァーチャル対談を試みることになった。

※発言が更新されるたびこのブログに転載していきますが、リアルタイムの対談は竹田君のフォーラムから確認ください:http://www.shinpeitakeda.com/community/main-forum/monument-anti-monument/

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竹田
Posted : 27/03/2020 6:24 am

2020年3月11日、トランプはヨーロッパからのアメリカへの旅行を禁止。3月18日その帝国は北のカナダの国境を3月20日には南の国境を閉じる。ウイルスは容赦なく国境を超えてくる。当事者から非当事者、その境界線は常に変動していることを忘れてはいけない。時と場所により、時間と空間により、境界線は急にでき、容赦なく当事者と非当事者の間を分ける。しかしこのウイルスによって全てが犠牲者になり得る、ある意味ですべての人間がある意味で、犠牲になっているわけだ。動けない、外にでれない、今まで良いとしか思われていなかった
…いわゆるMOBILITY。動けるということ。移動できるという自由が犠牲になっている。そうある意味で、当事者と非当事者の間はますます離れてきている。その境界線は、開き、アメリカでは6ft、ドイツでは1.5mから2m、メキシコでは1m以上。。。この距離はますます深く重く我々の社会に沈みこむ。N95 マスクが足りない、PEPが足りない、新しいCORONAVIRUSの専門用語が、まるでプロトニウムの半減期がどうのこうのというように急に日常会話に入り込んでくる、全てがシューリアル。。。。今のところほとんどの非当事者にとってだ。同時に当事者は、病院の中を走り回り、足りない棺桶を届け、保険がないと3000ドルもするテストをするために列に並ぶ。

しかし片一方では、我々全てが当事者なのではないのだろうか。もちろん当事者性に段階があるかも、しかしそれは爆心地から1km、3km、と円形状に測れるものではなくなってしまった。場所と時間はもう関係ない。どれくらいこのウイルスが自分の近くにいるのかはわからない、今開けたドアのノブにそのウイルスは忍び寄っているかもしれないし、もしかして、すでに体内にあるのかもしれない。そう同時期に当事者と非当事者の壁は薄く脆く、いつでも壊れる単なるillusion にしか過ぎない。そしてそれは、誰にもコントロールできるものではない。唯一、このウイルスと言うやつが、そう自然の一部がコントロールしている。

我々はこの当事者というものに対して、モニュメントに対する憧れのようなものを抱いていないだろうか。そして、この当事者と非当事者との境界線(それはビューファインダーかもしれない、今しているようなインターネットかもしれない、または自分の目の前に見える国境というやつかもしれない、いやありとあらゆる時間と空間のコンビネーション)に隠れているのではないのだろうか。しかしもし自分がそうでああればどうする。もう境界線はない。それは明らかだ。全ての人間が当事者で、全ての人間が非当事者である、当事者であろうと非当事者とあろうと、何一つ関係のない次元に来ている。いま我々が抱える生理的な感情そして生理的な可能性(ウイルスにかかるかどうかの可能性)は、境界線をどちら側に入ろうと、時間と空間を超えて、universal だ。そう何かが一つなのだ、人間という種が一つの種、多くの種の中のたった一つの種ということなのかもしれない。この次元に自分は注目していきたい。飛行機が止まり、車もほぼ走っていない、ノイズが消え、なぜか空気が綺麗に感じるのは自分のillusionではないのは明らかだ。今日、帝国アメリカの感染者数が8万5千、世界1になった。

新井
Posted : 31/03/2020 2:29 am

ウイルス感染の発症機序は、ウイルスがそれぞれ巧みな戦略で細胞の防御機能を撹乱し、細胞膜の内側にウイルスRNAを注入し、細胞内の資源を「横取り」してRNA転写を行うことが発端である(*)。そもそもウイルスは生物/無生物の境界線上に存在しわれわれ真核生物が登場する21億年よりはるか昔35億年前から存在したと考えられている。興味深いのは、ヒト・ゲノムのおよそ半分はウイルス由来であることが分かっており、人間を含むすべての生物がウイルスに感染する=ウイルスの遺伝子をインストールすることで進化してきたという事実で、ダーウィン進化と異なる生物の多様化プロセスを示していることである。
ウイルスの侵入を許すことは細胞/個体の死に結びつく危険性をもつ一方、長大な時間軸においてはウイルスなくして固有の種が誕生しえなかったという事実は、細胞膜=生命の内と外を隔てるボーダーで休みなく繰り広げられる攻防によって、生命がその均衡を模索してきたことを示している。
あらゆるボーダーは侵犯される運命にある。ボーダーなくして個的存在(細胞/個体/共同体/国家)はありえないが、同時に、その侵犯を許しながら柔軟に変化していく能力のない個的存在は、消滅する運命にあるといってもいいかもしれない。ある種のウイルスは感染により宿主の細胞をガン化するという。ガン化した細胞は健全な細胞を攻撃しやがて死に至らしめるだろう。アナロジーの危うさは認識つつも、アメリカのみならずEU諸国や日本、ほとんどの国々が示す利己的反応はコロナウイルスによる国家のガン化への不安を連想させる。ひとつの感染症がきっかけとなって、ヒトが自滅的行動に走った過去は珍しいものではない(スペイン風邪と第一次世界大戦etc)。
当事者/非当事者の境界はいま激しく揺らいでいる。アメリカや欧州の激しい混乱(市場のヒステリックな反応、ナショナリズムの再燃、不寛容)は西洋中心主義を謳歌してきた文明が、非当事者としての特権を失いつつある、という衝撃を表現しているのだろうか。モニュメントに対する憧れは、非当事者だけに許される快楽ではないだろうか。当事者にとってモニュメントとはそれがどれほど煩わしく、トラウマの表象であったとしても共生する以外に方法のない、自己の侵犯を許したウイルスの残滓ではないのか。
ヒトにとってももっとも困難な仕事はおそらく「手放すこと」だろう。コロナ禍の事後で、たとえば私たちは人間中心主義を手放すだろうか。新自由主義の狂乱から目覚めるだろうか。ボーダーを侵犯され他者と自己が融解した世界で、新しく生きはじめるための想像力と覚悟はあるのか。
(*) https://www.jstage.jst.go.jp/article/jibiinkoka/117/10/117_1245/_pdf

竹田
Posted: 03/04/2020 9:29 am

世界の感染者数が100万を今日超えた。ボーダーは侵犯されるべきである、それには賛成だ。そしてどう境界線を侵犯するのか、そういうところから想像・創造が生まれてきたのではないのだろうか。侵犯される、完全ではない、だからこそボーダーのなのか。たとえ時間と場所により、その高さとその分厚さは変わっても、侵犯されない部分というものはないのだろうか。それではボーダーが守るものは一体何なのだろうか。どちらがどちらを侵犯しているのか、どちらが侵犯されているのか、それはボーダーの北から見るのと、南とみるのとでは違う。内からみるのと外からみるのとでは違う。それは聖なるもの、いや、過去から未来へ続くゲノムのように、いや、我々が信じてきた何かの”個”というものなのか。(色々な場所で、色々な言語でこの個というものを考えてきたが)そこにもちろん新自由主義、いや人間中心主義との絡みがあるはずだ、そしてそこにこのモニュメントというものがそびえ立っているかもしれない。そう、その未来へ続くゲノムの中に、(特に)子供を持たないものは、何かを残したいと思うのではないのだろうか、そう簡単に侵犯されないもの。何かの証を、何かのために、100年後のたった一人のために。ボーダーが守るものはそのモニュメントなのか。いや、ボーダー自体がモニュメントなのかもしれない。手放すこと、それを手放すということは、今まで築いてきた”個”を捨てること、それはたった短い40年間築いてきたものだけではないと信じたい。様々な記憶と、何世代に伝わる、ある意味でのウイルス、それを手放すということは自分がウイルスへの侵犯を認めるということか。様々な”個”の概念の中、もちろん今いる場所では、1945年以来脅威を振るってきた甘ったるい”個”と西洋の植民者が持ってきたウイルスから生き延びるために、西洋人のゲノムに侵犯した、その血がミックスされたメキシコでの”個”。。それらの”個”がこの見えない恐怖をどうこれからこの国境の南側と北側で、対応していくか、そして、その境界線のどちらでもないボーダーランドにいる自分の”個”は、そう簡単に手放すことができるのか。自分に聞いてみる。何かにしがみついているのはわかっている。何故か全てが嵐の前の静けさであるような気がしてしょうがない。何か世界全体が不気味な映画に巻き込まれているのかのような、ハードなトリップを始めている。世界の鼓動というものをこれほど身近に感じているのは一つ確かなことだ。

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