放射/記念物とアーカイヴ

なんだか顔がヒリヒリするので鏡を見たら、額から頬にかけて軽い炎症がひろがって所々皮膚が剥けている。はじめダゲレオタイプの薬品のせいかと思ったが、どうやら原因はフラッシュ・ライトの閃光だったらしい。千人針の縫い目ひとつを四倍のマクロレンズで撮影しているので、ただでさえ感度の低いダゲレオタイプに露出倍数がかかり至近距離から1キロワットの照明を何発も焚く必要がある。自然とカメラのそばに顔を近づける格好になるので、顔の上半分がフラッシュ・ライトで火傷しまったらしい。念のため視野の外側やカメラをアルミフォイルでガードしているのだが、昨日は焦げ臭いと思ったらフォイルをとめていたテープから小さな炎が上がっていた。きれいな青い火で現実味がなく一瞬見とれてしまったが、慌ててもみ消した。以後は消火器を傍らにおき、サングラスをかけて頭からシャツをすっぽりかぶって撮影している。写真と原爆は同じなどという、ときどき誰かがまことしやかに説く論はとても嫌いだが(同じだったらなんだというのか?)光や熱、X線がおしなべて宇宙の放射であるということを改めて思い知る。

十年来「モニュメント/Monument」という言葉をつかってきた。五年くらいまえにゲッティ美術館で講演した折、担当の学芸員から「モニュメント/Monument」は「メモリアル/Memorial」という言葉に置き換えた方がいいのではないか、と言われた。そうなのかなと思って、英語が母語の何人かに二つの違いはと尋ねてみると、あまり明確な区別はないという。普通の語感としては差異のないらしい二つの語は、語源を調べると実は微妙に意味が違うことがわかる。Monumentはラテン語のMonere=「思い出させる」ものという意味を含む一方、Memorialは文字通りなにかを「記憶/記録している」ものという意味である。つまり前者はドイツ語の「Denkmal」(考えさせるもの)に近く、人の思考に働き掛けるモノという感覚がある。
わたしの記念物の取り組みは、モノに添付された意味と価値(政治性や倫理性)を脱構築して、その表面の注視から見る人それぞれの動的な思考を導くことが主眼なので、やはり「モニュメント」の方がイメージに近いのだと思う。
歴史的記念物に与えられた役割は、少なくとも日本の文化圏においてMemorialに近いのではないか、と考えている。しかし記念物を出来事の記録=アーカイヴとして保全するだけで、わたしたちが歴史から学び、あるいはそれを相対化したり、批判的思考を展開することはできない。モノや記録から導き出される意味の不確実性に親しみ、動的に感覚したり思考する経験を積まなければ歴史は単なる読みもの以上の価値を持たない。

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