脱・SNS

長いあいだ執着していたFacebookを離れることにした。テレビは地上波デジタル化についてゆく気がせず、人の尊厳を踏みにじるようなバラエティ番組や愚かな政治家の顔を進んで見たくはないので、ここ五年ほどは静かな居間に座っている。しかしたとえば地震があったとき、それがどのくらい深刻なのか画面のないラジオのニュースは、目の前に薄膜が張ったように現実の感覚から遠い。これでいいのだろうか、時代から遅れをとってしまうだろうか?
でも、制御された情報によって見える時代の相貌とはなにか。SNSはかつて国境を越えた市民発信の情報源としてあたらしい希望に見えたが、いまでは広告と個人情報の巧妙な盗みの手口となりまた、受け取りたくない情報を遮断する機能によって、それと知れず人々の分断を助長しつづける。
ドナルド・トランプやネットに跋扈する歴史修正主義者たちは、おそらくテレビしかない時代生き残ることはできなかったのだろう。短く途絶したTwitterの放言は、聞きたい者たちの耳にだけはっきりと届く。聞きたくない者たちは、旺盛な頻度で繰り返される同質の発言に疲労し、やがて情報を遮断してしまうので、そこにまともな議論が発生する余地はないからだ。
トランプや安部のような政治家の非論理的な語りは、SNS時代に極めて効果的である。彼/彼女らの放言は初めから対話のための発話でなく、むしろ一方通行であるべきなので、そこで大事なのは論理とか他者を尊重することではなく、単に声の大きさと、文の短さにある。彼女/彼らの放言にマス・メディアが振り回されながら、それでも「有識者」たちの討論番組などを編成しようとする様子はいかにも滑稽に見える。そのような議論の方法は対立する双方に最低限の教養と論理的思考を前提としているので、そもそも闘う土俵が違っている。
先月、韓国の全州で出会ったアーティストの張致中(Chang Chih Chung, 1986-)によると、台湾の活動家たちは、SNSでの発言の手法をむしろトランプに学んでいるらしい。確かに中庸であろうとし、いろいろな他者を想像すればするほど、一つの主張は無数の留保によって勢いを失うだろう。わたしたちはどちらかを選ばなくてはならないのだろうか──漠然としながらも、しかし、わたしはそのどちらでもない新しい話し方を探しにゆきたい。

しばらく会っていなかった人にさしたる用事もなく会い、とりとめもなく語らっていると、その人にはその人固有の時間が流れていることに気づく。SNSの狂騒から離れた途端、他者に向かう身体の感覚が変わるのが分かる。Facebookでつながっている900余人の友人・知人たちよ、さようなら。いつか現実の時空間で、また会いましょう。

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