リサーチ・ノート:千羽鶴・千人針
新井卓
(1)
戦争や災害にまつわる場所に捧げられ、病気の快癒や長寿を願って個人に贈られる千羽鶴の習俗は、太平洋戦争後、広島の原爆被害によって亡くなった少女、佐々木禎子から広まったとされる。1954年8月6日、2歳で被ばくした禎子は十年後の昭和30年(1955)に白血病が判明、広島赤十字病院に入院する。入院中、見舞客や入院患者に、折り鶴を千羽折れば元気になると教えられ、禎子も折り始めたという(2)。はじめ〈当事者〉である禎子が自身の延命を願って折った千羽鶴は、禎子の物語とともに国内外に広く知られるようになり(3)、いつしか〈非当事者〉が〈当事者〉へ捧げる記念物、国民的習俗として定着するに至った。現在、禎子をモデルに作られた広島平和記念公園の「原爆の子の像」には、国内外から年間約1,000万羽、重さにして10トン以上の折り鶴が届けられるという。(4)
民俗学者のジャック・サンティーノは、人々が感情に衝き動かされて公共空間に設置する記念物の集合体(assembrage)を「自然発生的な祭壇」と呼び、ある社会状況を変えようとする積極的な大衆行動として位置づけた。
公式の記念建造物は、設置者の想定する、物事のあるべき姿を提示する。戦争やテロなどによる人命の喪失と受難の経験──共同体を支えてきた大きな物語の裂け目──は常に存在したが、公式の記念建造物はむしろそうした裂け目を封じ込め、都合よく定義しようとするものである。(中略)しかし、ひとつひとつのモニュメント、儀礼行為、リチュアレスクな行事は、それらに関わりのある個別の集団に語りかけ、その集団のために語るのである。(5)
自然発生的な祭壇を、「大きな物語」──為政者や専門家たちが共同体に供給する歴史的コンテクスト──に対置される大衆の自発的運動としてとらえるサンティーノの指摘は、しかし、今日の日本において必ずしも的確とはいえない。なぜなら、サンティーノが9.11同時多発テロ跡地に捧げられたメッセージと並べて例にあげる広島平和公園の折り鶴は、戦後日本の「平和学習」プログラムのなかで、しばしば学校教育の現場に意図的に持ち込まれてきた活動であり、自発的衝動とは名付けがたい、別の成りたちをも併せ持つからである。また、自然発生的な祭壇とは、公共空間で衆目に晒されることを了解あるいは意図して作られるパフォーマティヴな場であり、通常はそれが捧げられる対象(犠牲となった特定の個人、グループ)が、多くの場合その固有名詞によってはっきりと示されているのに対し、千羽鶴は捧げる対象がしばしば曖昧である点にも注目すべきである。
その一方で、今日の日本社会において一般的に千羽鶴に付与された意味あるいは価値は、むしろサンティーノの見解に近いといってよい。広島や長崎、沖縄のひめゆりの塔だけでなく、1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災ののち、それぞれの被災地に大量の千羽鶴が届けられ、後年の記念日には、折り鶴づくりを推奨するメディアの自社広告もみられた(6)。このことから「千羽鶴を折る」という実用性を持たず、場合によっては捧げられた側に負担を強いる行為に対して、日本社会は今も相応の社会的・道徳的価値を見いだしている状況が見てとれる(7)。こうした現在の様相は、元々禎子=〈当事者〉による個人的/自発的営為であったはずの折り鶴が、太平洋戦争敗戦から七十余年を経て、日本社会の規範を支える象徴へと変質していったことを示している。〈当事者〉から〈非当事者〉へ、個人の苦しみの記憶から集合的記憶へ、大衆の個別的/自発的活動から「平和教育」の枠組みやメディアの統制下へ、力点を逆転あるいは移動させながら浸透していった千羽鶴の歴史は、もうひとつの合力祈願の習俗、千人針の歴史によく似ている。(8)
千人針習俗の起源は明確ではないが、昭和館学芸員・民俗学者の渡邊一弘によれば、明治6年1月10日の徴兵令布告以後、千人針は徴兵忌避、徴兵除け祈願のため作られていたのが、その後の徴兵令改正によって忌避が困難となり、日露戦争期にはすでに弾除け祈願へ移行していたという。(9)その成り立ちや、太平洋戦争中の千人針にしばしば記された語「祈無事生還」や五銭貨を縫い付けた(「四銭(死線)を超える」の語呂合わせによる)千人針は、歴史人類学者の田村恵子や(10)、千人針の持ち主への聞き取り調査を行った服飾デザイナー・森南海子(11)が強調したように、戦地からの安全な帰還を願うものであり、出征者の戦死を祝福する当時の世相に対する、ある種のカウンター・カルチャーであったとする見解には、ある程度の説得力がある。千人針の授与は公衆の面前では行われず、あくまで身内のあいだで行われていた、とする田村の指摘は、その説を支持するように見える。
はたして実際の戦闘で効果があるかどうかという理屈では測れない、母親や妻や姉などの肉親の気持ちがこもったモノが、千人針であったといえる。そしてその気持ちとは、「無事に無傷で戻ってくるように」であり、「お国のために命を捧げよ」というものでは決してない。さらに千人針には、この家族の純粋な祈りに同感する千人もの女性の思いが凝縮していたといえる。(田村, 39)
しかし、千人針のように全国的流行をみせた習俗を「純粋な祈りへの共感」あるいは「女性性」のような枠組みで簡単に総括してしまってよいのか、疑問が残る。松谷みよ子『現代民話考(6)』に収められた、千人針に関する次の証言には、千人針が持つ両義性が端的に示されている。
○全国各地。何時から始まったかはわからないが、明治三十七年五月十六日の『朝日新聞』(東京)に「学校にては、まじなひなどということは之を誡むべきはずのなのに……」と千人針に警告を与えている(教室にまで持ち込んでやるので)が、支那事変の頃まではずっと美談とされてきた。ところが、これは実際使用してみると、のみ、しらみなどのよい巣になって困ったともいう。寅年の女に縫ってもらうとよい。虎は千里征って千里帰るから。無事凱旋を祈って、日の丸に署名するのをきらった人もいた。純白を汚すから。
回答者・木立英世(愛知県在住)。(12)
明治期に「まじなひ」として当局、あるいは教育現場で忌避された千人針習俗は、やがて「銃後」の思想形成(国民精神総動員)のための道具の一つとして、体制から積極的に奨励されるまでに至った。日中戦争開戦時に、愛国婦人会から愛国子女団へ千人針の製作依頼、国防婦人会員による街頭活動などが盛んに行われていた事実、また当時のメディア表現からも伺い知れるように(13)、千人針習俗はこの時期から、すでに全体主義国家の統制下にあったこともまた、明らかである。日本史学者の瀬野精一郎は、次のように指摘する。
千人針そのものは、出征兵士の無事生還を願う庶民のささやかな祈りの発露であったと思う。しかしそれを腹に締めて戦場に臨んだ兵士達は、千人針を見るたびに、千人の女性の一針一針の期待を身に受けているように思い、千人針の本来の意図に反して、多くの兵士は戦の場で戦死することになったのではなかろうか。しかし千人針に進んで協力した女の人はもちろん、軍国の母や皇国少年達にも戦争への道へ何らかの寄与をしたとの意識は少ないであろう。しかしこれらの人々をすべて平和勢力の人民の中に含めてとらえることは、歴史実態の把握を誤っており、戦争によって何らの利益を受けることもない人民の中にも、意識していたか否かの問題はあるにしても、その行為によって結果的には戦争への道に寄与していた者もいたのである。今後も同じようなことが起きる可能性は大いにあり得ると思われる。既に意識することなしに、そのような行為をしているかも知れない。(14)
木立英世の証言から、呪物としての意味と実用上の現実、個人の欲望と共同体の規範、といった様々な相矛盾する価値感が、鮮やかに触知されるのではないだろうか。千人針の両義性について、個々人と家族レベルの呪物つまり極小の記念物(マイクロ・モニュメント)(15)としての千人針、そして思想統制の道具としての千人針が、分かちがたく接合されていることに、注目すべきである。渡邊は次のように結論する。
千人針は、「戦争忌避の危険な連帯性をひきだす可能性」をはらみつつ、全国的な協力体制が組織されていくなかで、女性の本心とは裏腹に、男性を戦地へ送り出す役割を持っていたとも言えよう。弾丸除け信仰から千人針習俗への移行を改めて捉え直すべき視点であると考える。(渡邊, 210)
ここまで、個々人のささやかな願いが生む極小の記念物(マイクロ・モニュメント)が、より大きな共同体を経て統治システムに包摂され、結果として国家の規範を下支えする文化へと回収されてゆく過程を見てきた。千人針から千羽鶴への文化史的・民俗誌的な連続性、類似点あるいは差異点については更なる考察が必要であるが、いずれも極小の記念物が(マイクロ・モニュメント)は、個々人における価値と国家規模の価値、その両方を併せ持つ場合がある、という点は特に重要である。なぜならば、個々人のいかなる小さな営み、共同体のささやかな習俗であっても、条件さえ整えば、極端ではあるが過去に実際に起こり得たように、全体主義を支える国家規模の活動となりえることが、ここで示唆されるからである。
現在、千羽鶴と比べてほとんど目にすることのない千人針習俗であるが、かといって完全に失われたわけではない。たとえば、自衛隊のイラク派兵に際して、元自衛隊員から千人針が贈呈されたという(16)。また、2018年のサッカー・ワールドカップ日本代表選手のユニフォームに、刺し子状の縫い取りが施されていたことに対して「千人針ではないか」との憶測や揶揄が、インターネット掲示板を中心に飛び交ったことからも(17)千人針習俗の記憶は日本社会において、いまだ新しいことが伺える。このような状況において、今日の日本に受け継がれる合力祈願習俗が、共同体のそれぞれの階層(個人から国家まで、異なる規模の階層)にどのように分布し、またメディア表現や社会規範の中で位置づけられてきたのか改めて考察することは、極めて重要であると考える。
註
1 アーティスト、映画作家、遠野文化研究センター委嘱研究員
2 高木智「第四章 折り鶴 その歴史を探る」,日本折紙協会・編『秘伝千羽鶴折形<復刻と解説>』日本折紙協会, 1991, pp.128-135
3 木村荘十二監督、諸井條次脚本の映画『千羽鶴』(1958)など。海外ではRobert Jungk著「Children of the Ashes: The People of Hiroshima after the Bomb」が禎子と千羽鶴について触れ、1961年にKarl Brucknerが著し翌1962年に英訳されたノン・フィクション小説「The Day of the Bomb」(原題=Sadako Will Leben)が注目を集めた。詳細は以下に詳しい。Mackie, Vera “Radical Objects: Origami and the Anti- Nuclear Movement” History Workshop Online, 2015/8/3, https://www.historyworkshop.org.uk/radical-objects-origami-and-the-anti-nuclear-movement/
4 折り鶴に託された思いを昇華させるための方策検討委員会 『折り鶴に託された思いを昇華させるための方策について(最終とりまとめ)』https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1475131979879/index.html
5 ジャック・サンティーノ「民衆による死の記念化」, ウェルズ恵子・編『ヴァナキュラー文化と現代社会』思文閣出版, 2018, p44.
6 「二十四連鶴 折るは、祈り。」神戸新聞, 2019年1月17日 朝刊別刷
7 広島市政局財政課『平成28年度当初予算主要事業』によると、広島市は原爆の子の像に年間10トン程度贈られる折り鶴の保管、運搬費用として約250万円を予算計上している。https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1454295556096/files/3_1_soumu.pdf
8 民俗学者・地理学者の千葉徳爾は「第二次世界大戦後は病気平癒を見舞う千羽鶴を折って贈る風習につながる」と述べている。(千葉徳爾「千人針」『日本史大事典 第4巻』平凡社, 1993, p.321)
9 渡邊一弘『戦時中の弾丸除け信仰に関する民俗学的研究 ~千人針習俗を中心に~』(博士論文), 総合研究大学院大学, 2014.
10 田村恵子『戦争の遺物とその移動がもたらしたもの──日本軍特殊潜航艇シドニー湾攻撃のその後──』京都大學人文科學研究所, 2013.
11 森南海子『千人針』情報センター出版局, 1985.
12 松谷みよ子『現代民話考[6] 銃後・思想弾圧・空襲・沖縄戦』ちくま文庫, 2003, pp.66-67
13 たとえば昭和12(1937)年10月15日付『大阪時事新報』に「奇蹟の“千人針”」「護符を真二つに敵弾喰ひ止む」「神の加護と愛妻の心尽しに涙の感激」との記述がある。(渡邊, 61-72)
14 瀬野精一郎「寅歳と千人針」,『日本歴史(453)』日本歴史学会編,吉川弘文館,1986.
15 筆者は個人間、家族、親類内といった最小単位の共同体内で受け継がれる呪物あるいは記念物を、公共空間で共有される歴史的記念物と区別するため「極小の記念物(マイクロ・モニュメント)」と呼ぶことにしている。新井卓「新しいモニュメントの到来のために(上)」『図書』岩波書店, 2017年1月号, pp.14-15.
16 第161回国会衆議院「国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援活動等に関する特別委員会」(2004年12月1日)で、阿部知子委員は「私は、実は義理の父が元自衛隊でございます。そして、元自衛隊員の方々が、今回派遣される自衛隊員の身の安全を案じて千人針を贈られました。仙台から出発する部隊でございました。」と述べている。(渡邊, 204)この千人針の存在については、阿部委員の発言以外に裏付ける資料は見当たらない。
17 宇都宮徹壱「苦しみ覚悟で臨むリールでのブラジル戦「ベテラン排除」の指揮官の意図は?」『スポーツナビ』2017年11月9日, https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201711090001-spnavi
参考文献リスト
日本語文献
新井卓 2017「新しいモニュメントの到来のために(上)」『図書(2017年1月号)』 岩波書店。
宇都宮徹壱 2017「苦しみ覚悟で臨むリールでのブラジル戦「ベテラン排除」の指揮官の意図は?」
『スポーツナビ』2017年11月9日付, https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201711090001-spnavi
折り鶴に託された思いを昇華させるための方策検討委員会 2012『折り鶴に託された思いを昇華させるため
の方策について(最終とりまとめ)https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1475131979879/index.html
神戸新聞 2019 「二十四連鶴 折るは、祈り。」2019年1月17日付朝刊別刷。
ジャック・サンティーノ 2018「民衆による死の記念化」ウェルズ恵子編『ヴァナキュラー文化と現代社
会』思文閣出版。
衆議院 2004 『第161回国会 国際テロリズムの防止及び我が国の協力支援活動並びにイラク人道復興支援
活動等に関する特別委員会 第6号(平成16年12月1日(水曜日))』衆議院。
瀬野精一郎 1986 「寅歳と千人針」日本歴史学会編 『日本歴史(453)』吉川弘文館。
高木智 1991「第四章 折り鶴 その歴史を探る」日本折紙協会・編『秘伝千羽鶴折形<復刻と解説>』日本折紙協会。
田村恵子 2013 『戦争の遺物とその移動がもたらしたもの──日本軍特殊潜航艇シドニー湾攻撃のその後──War Relics, Their movements and some consequences : the Japanese Midget Submarine
attack on Sydney Harbour and its aftermath』京都大學人文科學研究所。
千葉徳爾 1993「千人針」『日本史大事典 第4巻』平凡社。
広島市政局財政課 2016『平成28年度当初予算主要事業』広島市。
松谷みよ子 2003 「第2章 銃後のくらし」『現代民話考[6] 銃後・思想弾圧・空襲・沖縄戦』ちくま文庫。
森南海子 1985『千人針』情報センター出版局。
渡邉一弘 2014『戦時中の弾丸除け信仰に関する民俗学的研究 ~千人針習俗を中心に~』(博士論文)総合研究大学院大学。
英語文献
Mackie, Vera 2015 『Radical Objects: Origami and the Anti- Nuclear Movement』History Workshop Online,
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