Diary

二つの「日誌」と「作業」について

今朝、ふたつの「日誌」が届いた。丸木美術館学芸員・岡村幸宣さん『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員 作業日誌2011-2016』(新宿書房、2020年)そして東京新聞記者・片山夏子さん『ふくしま原発作業員日誌 一エフの真実、9年間の記録』(朝日新聞出版、2020年)で、前者は岡村さんからご恵贈いただいたもの。 いずれも東日本大震災後のオーラルヒストリーなのだけれど、前者が岡村さん本人の日々を綴ったモノローグで

『現代詩手帖』連載終了

2017年から3年間続いた『現代詩手帖』表紙とエッセイの連載が終了しました。2020年1月号から、表紙は画家の中上清さんへリレーとなったようで嬉しい。中上さんは、2006年に横浜美術館で川島秀明さん、藤井健司さんと一緒に滞在制作した折に出会い、美術の世界で右も左も分からず不安で一杯の時から、変わらず叱咤激励してくださった心の師の一人。 月に一度書くという初めての仕事は、思ったより何倍も難しかったが、自由気ままに試行錯誤できたのは、編集長の藤井一乃さんの懐の深さによるところに他ならず、本当にありがたい機会をいただいたと思う。涼やかなデザインの中に拙作を大事に融合してくださった清岡秀哉さんにも感謝。 2000文字足らずの連載に四苦八苦しながら、時折二十代を振り返りつつ書く時間は、いままで自分がどれほど多くのことを置き去りにしてきたか、直視する過程でもあった。これほど拡散してしまった自己の砕片を一つにかき集める手立てはあるのだろうか。答えの見つからないまま、まもなく、新しい一年が訪れる。

環世界

環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。ユクスキュル/クリサート著『生物から見た世界』(序章 環境と環世界)、日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店、2017年. 今年十月、台南でひらかれた東アジア環境史学会で、藤原辰史さん、石井美保さん、篠原雅武さんの研究グループ(Anima Philosophica)に加えていただき、私もつたない発表を行った(*)。石井さんの嘆息するような美しい発表で「環世界(Umwelt)」という言葉をはじめて知り、帰国してすぐ岩波文庫の『生物から見た世界』を手にとった。 ゾウリムシからコクマルガラス、人間まで、それぞれの生きものはそれぞれの知覚に閉ざされた(またはそれぞれの知覚によって主体的に構築された)世界に生きており、ユクスキュルはその概念を環世界(Umwelt)と名付ける。 十二、三歳のころ、夢中で読んだ本がある。動物行動学者・日高敏隆とジャズ・プレイヤー・坂田明の対談が

一昨日、12月26日、バンカートスクール「〈見る〉ことをあきらめないための写真と言葉」全8回の講座が終了。参加メンバーそれぞれの写真(または映像)と言葉を交換しながら、写真史の断片の紹介、ベンヤミン、バルト、ソンタグなどのテキストを精読することを中心に初めてのプログラムを試みた。参加者全員がもつ眼の違い、それぞれの言葉のおもしろさに目を瞠かれ、トヨダヒトシさんにスライドショーを披露していただく夢のような回(12月2日)もあり、教えるというよりも自分自身が悩み学ぶ講座になった。 二人組になって一枚の写真を交換し、お互いの作品に言葉を添える実験は特に好評で、機会があればまたやってみたい。わたしのユリの作品には、高校一年生の受講生・守田有里さんが言葉を与えてくれた(画像)。「写真と言葉」というとき、その関係性は必ずしも作者という個人に閉ざされているわけではなく、他者への思いもよらない「ひらかれ」への広大な可能性が含まれていることに、改めて気づかされた。その気づきの感覚に、つづけていくための光が差し込む。

橋本雅也の彫刻を見るとき、わたしたちは花を見てはいない。わたしたちの眼は削り出された組織/tissue、鹿の生命がたゆみない異化と同化作用を繰り返して結晶させた織物/tissu、その内部に晒されている。それは鹿たちの、わたしたちの肉体の隅々に隠された形態、手触りと質量のあらわれであり、物質と生命の不確かな境界面(インターフェース)のあらわれにほかならない。 (橋本雅也「間なるもの-霧のあと-」展、ロンドンギャラリー、11月16日訪問。)