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[23-12-2010] 落差のない滝 午後から明治大学生田キャンパスにて「光、礫、水」展のための作業。8×10のモノクロに変なことをして10カットほど撮影する。 懸案だったオブジェの配置は、予想したよりもいい感じに異様な雰囲気になった。今回の展示は、きわめて精密かつシリアスな悪戯です。   [22-12-2010] 青森、ルワンダ、斑女 冬至になった。すべてが透明な音をたてて、陽に転回しはじめる季節。 先週末、京都造形芸術大学/時代の精神展『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』を見るため日帰りで(というか飲みすぎて朝帰りになってしまったけど)京都へ。 すでに写真集で見た写真とテキストではあったが、天井の高いルクソール宮殿みたいな空間に、等間隔に立ち並んだ大判のポートレイトは圧巻だった。ポートレイトの横には小さなパネルが掛けられていて、ひとつひとつ女たちのモノローグが印刷されている。写真を見る、という行為そのものを変容させる展示だと感じた。 一組のテクストと写真を見るためには、およそ10分くらいの時間がかかる。ふつうの写真の展示空間では、身体の横方向への移動が、見る体験の「浅さ」の感覚をつくりだしているが、この展示には深さと高さがある。林立するモノリス、沈黙のうちに充満した言葉の群れ。素晴らしい仕事だと思った。 先週は京都行きを挟んで、目黒アピア40で念願の友川カズキのライヴ、喜多流の能楽定期公演「斑女」「黒塚」など。   [21-12-2010] Reunion 週末、久しぶりにいつもの「大樽」で写真学校の同級生と集まった。 ぜんぜん変わらない。ほんとはみんな変わりつつあるはずだから、変わらないという感覚は不思議だ。おなじ時間を共有し、貧乏とか恥ずかしいことを共有している友だちの間には「無条件」という接頭辞がいつもついてくる。だから会うとついつい飲みすぎる。   [15-12-2010] 礫 一月の展示で使う石を切ってもらうため、近所の石材工場を訪ねた。入口からは見えなかった巨大な空間にたっぷりと外光が注いでいて、もうもうと立ちこめる石の粉塵が、神話的な感じを漂わせている。 私が住んでいる川崎中部の府中街道沿いは、高度成長期時代に中小工業の生産拠点として発展した。ずいぶん数は減ったが、今でもすこし路地を入るとその風景が残っている。 スレート色の工場には人の気配が満ちていて、その目立たないひとつひとつの箱の中で、ネジや金型、板バネ、シートベルト、ふとんの中綿や人工衛星のモーターなどが作られている。それらは決して人の眼に触れることなく、私たちの知らない流通網を辿って、既製品の見えない内奥へと送り届けられるものたちだ。 既製品でつくられた世界は多様に見えて、実は有限のバリエーションで区切られた密室にひとしい。いまのところ生活の安定とか向上とは、世界の貧困さを許容すること(受動的に、または半ば積極的に)によって達成されている。 ものを作ることは、物質と交感することである。 みかけの「貧困さ」の方へ。手の貧弱さから始めるということ。   [28-11-2010] 栄力丸ダゲレオタイプ/複製プロジェクト(1) 修復家の三木麻里さんと待ち合わせ、川崎市市民ミュージアムへ。 m-miki来年の展覧会に向けて、川崎市所蔵・栄力丸ダゲレオタイプ2点のレプリカ製作の作業が始まった。三木さんが細心の注意を払いながらハウジングを開け、私は作業過程ごとの写真を記録。最後に、レプリカを作る際のポジとして使用する画像を撮影した。 これから三木さんはハウジングの修復とレプリカ用の新たなハウジングの製作、私は銀板へ密着焼きするためのデジタル・ネガ(正確にはポジ像)のテスト制作に移る。 160年の時を超えてハウジングから取り出されたダゲレオタイプは、経年による部分的なターニッシュ(変色)によって、宝石のオパールのような虹色になっていた。写された男たちは不安とも安堵ともつかない曖昧な表情を漂わせ、それでも確固とした尊厳に支えられているように見える。ミニアチュアの魔術によって封じ込められた魂が、銀板のなかでひっそりと息づいているみたいだ。 高解像度で入力したデジタル画像を観察していて、ひとつ発見があった。男の目に、黒い台形のかたちが見えその周りにハイライトが入っている。斜めに作り付けられたガラスの天窓と明るい採光のダゲレオタイプ・スタジオ、そのシルエットだろうか? 眼の中の影像に、ひとつの時空が凝集している。それは艶やかなブラックホールのように、裏返しに世界を包摂している。 追記)栄力丸の船員は52日間の漂流ののち「オークランド号」に救出され、その後別の船上で撮影された、との記録もあるので、シルエットは船上の何かを映し出しているのかも知れない。   [27-11-2010] ルワンダ・ジェノサイドから生まれて 午前中、明治大学生田キャンパスにて1月の展示の打ち合わせ。 今回はダゲレオタイプ、映像、そして立体による展示を構成する予定で、そのなかでも重要なのがギャラリーに隣接する図書館書架を使用した”Replacement”と名付けたインスタレーションだ。諸事情あって実現への道のりは険しそうだけれど、この要素を欠いた展示は成立しない。なんとか理解を得られることを祈るのみ。 夜はAKAAKA舎へジョナサン・トーゴヴニク氏と竹内万里子さんによるトークを聴きにいく。写真集『ルワンダ・ジェノサイドから生まれて』日本語版の刊行と現在京都造形大で行われている個展に合わせ、写真家が来日した。感動的なプレゼンテーションだった。 初めてこの写真集のオリジナル版を目にしたとき、端正な装丁、ルワンダの母子をシンプルにとらえたポートレイトと、原題の”Intended Consequences: Rwandan Children Born of Rape”というダイレクトに暴力の存在を告げるタイトルとがうまく頭の中で一致しなくて、混乱したのを覚えている。 トーゴヴニクが撮影したモデルは、ルワンダで90年代初頭に起きたジェノサイドの渦中、民兵によって暴力や性的暴行を受けた女性たちと、そのレイプの結果生まれた子供たちである。写真家は、それぞれの女性と数時間にわたる対話を行い、その後彼女たちが暮らす家の近隣で撮影を行った。母子はそれぞれにカメラをまっすぐに見つめ、無数の言葉が凝縮されたような沈黙の表情のなかに、静かに佇んでいる。 母子はとてもよく似ている。まさにその似ている、という事実が、引き裂かれるような複雑な感情を呼び起こす。何組かのインタビューを読み、ポートレイトを見ていけば、はじめは不意に叫びたくなるかも知れない。しかし写真家は決して叫んだり、声高に訴えたりすることなく、低い声で語り、距離を計り、見つめ耳を傾けつづける。その仕方は、とても強い。穏やかに語りかける「声」の写真集。   [19-11-2010] Lights ジョエル・マイエロヴィッツみたいな夕暮れ。 空気が、固くて透明になっている。   [03-11-2010] fluxsus 先週末、遠野への旅から戻った。 今回は遠野市西部の山地、とくに古生代の残丘(モナドノック)である早池峰南麓をくり返し訪ね、十数点の「滝」のダゲレオタイプを撮影した。 滝とは固有の<もの>ではなく、現象/状態を表すことばであり実体がない。宇宙が生成してから消滅するまで、決して繰り返されることのない水の落下、その反映が銀板のおもてに降り積もり、ただ一片の積分された映像が顕われる。 遠野から持ち帰ったダゲレオタイプは、来年1月14日から24日にかけて、明治大学生田キャンパス図書館、および併設された展示空間のGallery Zeroにて行われる個展で発表します。 https://www.lib.meiji.ac.jp/about/exhibition_zero/index.html このプロジェクトは、滝という現象と、鏡面の映り込みによって常に生成流転するダゲレオタイプの映像に注目したまったく新しい展示になるはずです。 — 今度の旅では遠野の色々な人のご厚意に触れ、全力で制作に集中することができました。特に作業場所を快く提供してくださった早池峰ふるさと学校の佐々木さん夫妻、藤井さん、数々のレアな情報を教えていただいた民宿「御伽屋」のご主人に心から感謝します。   [24-10-2010] …

[25-11-2009] 5 days in SF 今日がサンフランシスコ滞在最後の日、明日の便で日本に帰る。 滞在中は、作家でKala art Instituteのスタッフでもある服部さん濱中さんご夫妻にとてもご親切にしていただいて、オークランド周辺の制作の現場を垣間見ることができた。Kalaはハインツのケチャップ工場を改築したスタジオと、少し離れた場所にあるギャラリーを保有するアートセンターで、レジデンシープログラムやフェローシップの公募等も行っている。西側の窓から差し込む光が、とてもきれいな場所だった。 写真家の兼子裕代さんにも同じ日にミッション16丁目駅で再開、今日は兼子さんのご紹介でRayko Photo Centerという写真センターを訪問。 Raykoはひとつの倉庫を丸々ギャラリーと暗室、ビューイングルームに作り替えた巨大な空間で、中判から8×10までの引き伸ばし機が多数並び、40×50インチのタイプCプリントも一時間14ドルの貸し暗室で制作することができる。ティンタイプを使う作家で半年前からダゲレオタイプも始めたというMichaelさんとひとしきり話す。   [21-11-2009] SF 昨日の夜、サンフランシスコ着。仕事の撮影は順調に終了、空港の手荷物預かりで行方不明になっていた三脚も見つかった(アメリカ中を二日間、ぐるぐる回っていたらしい)。 西の空に細い三日月がかかっていて、その下に真珠のベッドのような街区が広がっている。飛行機が着陸する瞬間、丘の向こうに緑色の火球が落ちるのがみえた。 ホテルに荷物を置き、とりあえず近くのタイ料理屋へ。とても空腹だったので麺と春巻き、それにカレーを注文。ダシ文化に飢えていたのでしみじみうまい。 滞在中はSFMOMA、Kala Art Institute、そのほかのギャラリーや写真センターを見て回る予定。とても楽しみです。   [20-11-2009] 荒れ野 セドナから荒れ野を200マイルほど走り、ホホバ・プランテーションへ。 古生代の山脈に囲まれた砂漠の中央部で、わずかな灌木と、祈る人の形をしたサボテンのほか、ここにはなにもない。完全な静寂、無限の深度をもった空。   [17-11-2009] Sedona, Arizona シカゴ経由、サウスウェスト航空でフェニックスへ。 飛行機から見下ろすと、赤茶けた荒れ野に整然と区画が敷かれていて、キラキラした無数の家並みが、まばらに、そしてどこまでもつづいている。地平線の向こうまでつづくばかでかいフリーウェイの上を、たくさんのトレーラーが、ゆっくりと、蟻のように這いすすんでいく。火星のコロニーみたいだ。スタニスワフ・レムの小説を思いだす。 フェニックスに一泊してから、北へ3時間ほど走り、お昼ごろセドナ着。 今回の旅は、長いことお世話になっている化粧品会社の依頼を受けアリゾナ一帯を撮影することが目的だ。滞在は4日間、その間にセドナ周辺、プランテーションなどを廻って、週末にサンフランシスコに抜ける予定。 ここは空気が薄く、太陽が黒い。   [16-11-2009] 別れ フィラデルフィアでの展覧会が無事開き、金曜日のアーティストトークを終えて、気がつくともう出発の日を迎えていた。 昨日までの雨はきれいに上がり、うす水色の空にパラフィン紙にような巻雲が幾筋か浮かんでいる。早朝、Mの運転する車でハイウェイを走っていると、抑えがたくセンチメンタルな気分がわき起こってきてどうしようもなくなる。 春のフィラデルフィアにはじまって、日高山脈での山籠り、ブリ、そしてふたたびフィラデルフィアへ。今年は旅の多い一年だった、まるで写真のお遍路みたいだった。 Project Bashoの周辺ではほんとうに数多くの素晴らしい人たちに出会った。何よりもフィラデルフィア滞在の機会と縁をもたらしてくれた伊藤剛君に心から感謝します。   [05-11-2009] フィラデルフィア、3日目 2日月曜に、シカゴ経由でフィラデルフィアに到着。 Project Bashoの伊藤剛君のスタジオにお世話になり、いま今週末のワークショップと翌週からの個展に向けて準備をしています。天気はこのところ快晴、今日はベッケレル現像のテスト、DIルームではアシスタントのタイラー君が展示用の大判インクジェットプリントを出力中。 今度のワークショップは二日半の日程なので、比較的取り組みやすいベッケレル現像と、水銀と臭素を使うマルチコート・ダゲレオタイプ両方をレクチャーする予定。 いまのところワークショップの申し込みは6人、コロラド、DCあたりからもわざわざ参加する方がいるらしいので、それぞれ最低1枚は満足のいくダゲレオタイプを持ち帰ってもらえるようにしたい。 ベッケレル現像ダゲレオタイプは、深いブルーで薄もやがかかったような印象の画像に仕上がる。去年から水銀現像だけに取り組んできたので、久しぶりに見ると、ベッケレルの夢見るような映像も悪くないなと思う。   [01-11-2009] Solo Exhibition: “Flawless Lakes” Takashi Arai’s first US show, “Flawless Lakes” features 20 daguerreotypes plus …

[27-08-2008] miles away 昨日、成田で一人の人を見送る。 展望デッキからは、さまざまなマークを背負った飛行機たちが国際線の滑走路から飛び立っては、離陸姿勢のまま、つぎつぎに低く垂れ込めた雲の中に溶けて消えて行くのが見える。やがて友人の乗った機体も、灰色の矢のように唐突に速力を上げ、あっという間にニュートラル・ホワイトのもやの向こうへ、音もなく吸い込まれていった。フェンスから身を離しながら、旅の安全を祈る。 見送るときはいつも、たとえ短い別れであっても、地に根が生え一本の灌木になったような気持ちになるものだ。(送迎デッキのフェンスに思い思いの格好で身体を寄せる、たくさんの灌木たち。) 空港をあちこち見て回ってから(空港の出発ロビーはとても好き)、車を東へ走らせ九十九里へ。 友人のMYと一緒に、生まれて初めてサーフィンをやる。ウェットスーツに着替えると二人とも群れからはぐれたオットセイみたい。でも指導してくれた方の教え方が完璧だったので、2時間くらいでなんとかボードの上に立って進めるようになった。 立ち上がって足下を見ると、自分の身体と一緒にエメラルド色の波の泡立ちが幾重にも折り重なって進んで行くのがスローモーションで見える、これは本当にすごい感覚だ!   [14-08-2008] 解の方程式 今日は朝から父の実家へ帰省。 畑で今朝採れた野菜の天ぷら、ひやむぎ、煮物、漬ものなどが食卓に並ぶ。 祖父も祖母も少し痩せたように見えた、夏の軽装のせいだろうか。高一になる従姉妹が数学の宿題を持っていたので家庭教師の真似をしてみる、二次関数の「解の方程式」をそっくり忘れていてショックを受ける。 祖母がゴーヤを収穫に行くので後をついて戸外にさまよい出ると、ねっとりとした雨後の大気に、名前の判らない房状の花や、草の葉の甘い香気が充満している。 五つか六つのころ、わたしはこの家が大好きで、ほとんど永遠とも思えた数週間の間、祖父母や、まだ生きていた曽祖母に囲まれて王のように過ごしていた。スーパーカブのうしろに便乗して灯籠流しを見に行ったり、弟とともにトラクターの荷台に乗り、谷津の田んぼにドジョウや、なぜか迷い込んでいたブラックバス(その後、そいつはわたしの部屋の水槽で他の魚を次々に飲み込みながら、ずいぶん長い間生きた)を捕まえに出かけたものだ。 今日、祖父にはビールを少し勧め過ぎてしまった、すこし足許が危なっかしかった、思わず肩を支えてから不意に、最後に祖父の身体に触れたのはいつだったかなあ、と考えていた。   [12-08-2008] Ari Marcopoulos 昨日の夜は、GALLERY WHITE ROOMでAri Marcopoulosの展示を観てきた。展示の点数は少なかったけどゼロックス・コピーを使用した写真集が良い。自分の生のぴったりしたところで撮ることの強度と持続性。(同時に展示していた日本人作家のふやけた作品とは対照的だ)   [11-08-2008] olive-green mine 今日は一日家で仕事をしていた。 一時陽が翳ったので何気なくアトリエから窓の外に目をやると、すぐ傍の電線に視線が向き、なにやらよく見えぬまま、よろこばしい気持ちがおこってきた。次いでそれが電線の碍子に留まった一匹のウグイスであることがわかり、さらによく見るとそれが実はウグイスではなく、ただの薄黄色いスポンジ状の部品であることがわかった。 よろこばしい感情はウグイス=名前/意味以前の体験であったのに、それはなぜもたらされたのか?単に視野の中の黄緑色のしみであったそれが名前/意味なしに感情を呼び覚ますなら、本当はどのようなヴィジョンも、ダイレクトになにがしかの感情を生起させ得る(でも現実を覆いつくす意味のヴェイルを振りほどくのは簡単ではない)。問題は、<黄緑の丸みを帯びたしみ>に対する感情が経験(春の諸感覚に縁取られたウグイス体験)によってもたらされるのか、もしくはウグイスの形態そのものがよろこばしい感情のひな形としてあるのか、ということ。   [09-08-2008] Country of Last Things 平日は建築雑誌、美術館ほか依頼撮影数件、写真を見に大学の後輩で春秋社のK君来訪。 木曜はコチャエの二人とラジカセコレクターの松崎さんの仕事場(縄張り)を見学(松崎さんは廃品置き場などから入手したラジカセやテレビを自分で分解修理し、ネット上で販売している方。今度本を出されるのでその写真を担当することになった)。首都圏某所の廃物集積所に案内していただいたのだが、すごい場所だった。 まず廃家電や廃線、ゴミが一緒くたになった山が重機で掻き分けられ、同系のモノが選別されて山積みされていく。これらは全て圧縮されてゴミとしてコンテナに積み込まれ、そのまま横浜港から中国へ輸送される。そののち銅線や使えそうなモーター、エンジン類などに腑分けされマーケットで売り捌かれることになる。 ジャンクヤードのむき出しの即物性には、強烈な視覚的エクスタシーがある。そこにうずたかく積まれているのは、広告的イメージによって輪郭を曖昧にされた「商品」ではなく、マテリアルとマッスのみによってのみ価値を見いだし得る生粋の「モノ」だ。価値や意味を付与するのは探索する人本人であり、こうして廃品の山を歩きながら使えそうなモノの発見に意識を集中するとき、付加価値のまやかしに満ちた生活の中で見えなくなった、モノに対する主体性が復活する。 ところでコンテナに入る前のモノは自由に見て回って良く、何か気に入ったものがあれば現場をうろうろしているウェストポーチの中国人と値段交渉して購入してもよい。敷地の片隅に細長いアルミトランクが転がっていて、直感的にこれはと思い開けてみると、プロペットの大型ストロボが入っていた。電源を入れるとちゃんと発光するしモデリングもチューブもまだそんなに古くない。松崎さんがウェストポーチのところへ行って交渉してくれ(独特の身振りと発声)、めでたく数千円で購入。 そこにあるのは、いままでなかった新しい何かです。正体不明の物質から成る小塊です。それは一個のかけら、切れ端、おのれの場を持たない世界の一点です。それは物のモノ性を示すゼロ記号です。何かが十全な姿のまま見つかることを期待してはいけませんが、・・・完全に使い尽くされたものを探すのに時間を費やしても仕方ないのです。物拾い人はその中間をさまようのであり、有用性はもはやなくなっていても元の形をどこかにかろうじてとどめている物たちを探してまわるのです。(ポール・オースター『最後の物たちの国で』柴田元幸=訳)   [12-07-2008] 母系 月曜日、活版印刷をつかってデザインをする澤辺由記子さんと港千尋さんの対談を聴くため、青山のBook246へ。 港さんが撮影した、現役の活版印刷所の写真を見ながら二人の対話を聞く。活字を工場の入り口に、母系から活字を鋳造するための金属が山積みされている。 かつて、文字には重さと体温があった。 銀の鏡文字の群れが、白い原野に次々に到着していた、ただ一つの組み合わせ、二度と起りえない必然性の雨として。   [08-07-2008] 無題 週末は友だちの結婚式に参列。 早めに着いてダゲレオタイプ・プレートを準備、ハレの衣装に身を包んだ新郎新婦を撮る。(結婚式って不思議だ、人々がそれぞれの遠さのなかで佇んでいる。会場の端から端までの、途方もない距離。) 翌日早朝、三次会のウィスキー・ソーダでよれよれになった身体に鞭打って起き出し水を浴びてから、ワークショップで使う銀板を磨く。磨きすすむうちに正気を取り戻し、少しずつ気持ちが澄んでくる。 天気が回復に向かっていてよかった、第三京浜を全速力で走って黄金町へ。 スライド・レクチャーの後、大岡川の桟橋で3分30秒の集合写真撮影。ベクレル現像を待つ間いろいろな方とお話する。今回はとても熱心な人が多く、嬉しかった。定着が完了し部屋を明るくした瞬間、歓声が上がる(この瞬間はいつも魔術師の気分だ)。 会場撤収の後、ボランティアのNRT君が働く韓国料理屋で打ち上げ、運転があるので飲めなくて残念だったけど。   [01-07-2008] 黄金町 黄金町では、何ひとつ手がかりや核心らしきものが掴めない。 何かが穴ぐらのなかで息を殺していて、その穴の入り口を、特徴のない白っぽいタイルで舗装しつつある、といったような・・・。 等間隔に配置された警察官、店名を掲げたまま灯を消し、奥に人の気配のする空き店舗。ここでは「アーティスト」が特権的な立場を付与されているようだ、赤い紐の名札を提げてさえいれば、裏路地で堂々と三脚を拡げていても、きょろきょろと見回しながら桜の葉陰を行ったり来たりしても、巡査や警備の人に咎められることはないし、自分も安心だという気持ちさえある。こんな場所は、他にはない。 うまく言えないけれど、本当に変な感じだ、とてもやりにくい。心の中でどうしても消化しきれない感覚が、カメラを構える度に増殖していく気がする。この気持ちわるさに、慣れないこと。   [30-06-2008] Let …

[2月2日(木)/2006] 皮膚としてのプリント 国立近代美術館のプリントスタディ制度を利用するため、朝から竹橋へ。少し早く着いたので窓口の近くで待っていると、研究員の竹内さんご本人が出てきたのでちょっと驚いた。3階の休憩室の一角がプリントスタディのための空間にアレンジされていて、大きな窓の向こうに皇居が広がっている。わたしは利用者第4号、1号は鈴木理策さんらしい。 午前の部は、まずマーティン・パー『最後の保養地』から6点、それからダイアン・アーバスのプリント7点を観る。アーバスを観て疲労困憊したので、早めにお昼休みをいただいて、皇居で昼寝する。午後になってから川田喜久治のラスト・コスモロジー、最後にハリー・キャラハンのプリント4点を観た。 初め、特に気負いもなく作品を観始めたのが、アーバスのプリントを観て、ガラスもかかっていず額にも入っていないプリントを、10cmの間近で観る行為の特別さに気付いた。まるで、生の顔を手で撫でるような触覚的な作業であり、収集できる手がかりや痕跡が圧倒的に厚い。そして、表面に散らばる無数の手がかりは不分明で、情報化される前の段階で保留されている。ここでは写真家のキャラクター、たとえば「アーバスらしさ」といったもの(それがあるとすれば)は薄まっており、その時々に応じて、見る人と写真、というとても個別的な体験として関係が生じていく。 ハリー・キャラハンのプリントは極限まで冴え渡っていて、疲れた目を冷水で洗うような清冽な感覚がある。印画紙の紙白よりも、写真のハイライトの方が白く輝いて見えるというのは、一体どういうことなんだろう?エレノアの顔、こちらに向かってくるプリント。 プリントスタディ(写真作品閲覧制度)の詳細は下記。事前に仮予約と予約が必要。 https://www.momat.go.jp/Honkan/printstudy.html   [1月29日(日)/2006] 十年祭 今日は祖父の十年祭(神道では、没後五年、十年、という具合に式年祭が執り行われる)、家族で阿佐谷の神明宮に向かう。良く晴れていて、菊の楼門飾りがぴかぴか光っている。本殿の硝子戸の奥で、重たい鏡が青白い光を返して浮かんでいる。 このところ折口信夫を読んでいたせいか、祝詞の言葉をひとつずつ聴き取ることができた。 (あらしほの しほの やほぢの やしほぢの しほの やほあひにます はやあきつひめといふかみ もちかかのみてむ……) 蜘蛛が一匹、宮司の襟首のところでゆらゆら遊んでいた。いい祝詞だった、もちろん祝詞の良し悪しなんて分からないけれど、ただ、いい祝詞だと思った。   [1月28日(土)/2006] 無題 26日からの3日間、作品と新しい展示プランを持って、関西近辺のギャラリーを巡ってきた。アポイントもなしに突然お邪魔したにも関わらず、どのギャラリーでも丁寧に作品を見ていただいたのが嬉しかった。3日目に訪ねたGUILD GALLERYで企画展の話がまとまり、冬ごろの会期を目指して、一つの目標が定まった。 多忙にも関わらず、長時間にわたって案内してただいた小林さん、まだ形の定まらないものを信頼してくださった金谷さんに、心から感謝します。 今年は東京-大阪2カ所での企画展を開くことが目標なので、あとは東京側での可能性を当たっていきたい。 (覚え書き) 1日目 夜明け前の京都駅に到着すると、グラニュ糖のような淡雪が降っていた。宿のチェックインまで相当な時間があるので、そのまま四条を経由して清水まで歩き、そこから三十三間堂に下った。指が切れそうな程冷えきった回廊で、千手観音の幾千の手のひらから泡立ちのような音が漏れ、それが縒り集まって津波のように迫ってくる。この場所では、祈る側と祈りを捧げられる側の数的関係がまるで逆転していて、見る者は、波に崩れさらわれる砂粒と化す。 午後からはギャラリー射手座、ギャラリストの渡邊さんと少しだけお話する。北大路駅周辺にいくつかギャラリーがあるので見に行く予定だったが、2軒がお休みで、結局voice galleryと issisだけ見学することができた。 次に、京都造形大学の合同合評会を見学するため、タクシーで瓜生山へ。久しぶりに写真学校の合評会を思い出すが、傾向はまるで違っているのが興味深い。森山大道さんのコメントは手短で平明で、何一つ無駄がない。終了後、飯沢耕太郎さん、やなぎみわさんとお話する機会があり、ダゲレオタイプなどを見ていただいた(お忙しいところありがとうございました)。 その後、小林美香さん、坪口恍弋さん、芦田陽介さん、造形大の4回生二人と四条河原町の焼酎と魚が美味しい店で飲む。案の定、飲みすぎた。 2日目 鴨川で少し風に当たってから、奈良のギャラリーOUT OF PLACEへ。町屋のほっそりとした路地の奥に、行き届いたスペースが広がっていて、少し驚く。ディレクターの野村さんに、アポイントなしにお邪魔したにも関わらず丁寧に作品を見ていただき素晴らしいコメントをいただいた。こちらのギャラリーには、ひとまず作品の資料を何点かと、テクストを選んで送ることになった。 夕方からは、以前から小林さんにお話を伺っていた、EXILEギャラリーの西澤さんに初めてお会いした。思いがけず現代詩手帳やジャズや映画の色々な話題が繋がる。散文/詩の抜粋をお送りする約束をする。 3日目 お昼過ぎに大阪の淀屋橋で小林さんと待ち合わせる。近くでお昼を食べてからEarly Galleryへ。ギャラリーの有田さんに作品と企画を見ていただき、様々な示唆(ほとんど宣託みたいな調子なので、たぶん逆らってはいけないのだろう)をいただく。その後GUILD GALLERYを訪ねたところ金谷さんがご不在だったので、一度Nadarにお邪魔してから、頃合いを見て再び戻る。3日間多くの方と話し合ったせいか、この頃には自分がやるべき仕事、やりたい仕事が随分明確になってきていた。金谷さんにお会いして作品と展示プランをお話しすると、ものの10分くらいで「前向きに」話がまとまってしまった。当初考えていたダゲレオタイプのプランではなく、最近取り組んでいるカラーのシリーズを中心に、企画をまとめることに。まだどこに向かうか分からない、10点余りの写真を信じて機会を与えていただいたことに感謝すると同時に、その仕事の重さから背筋が伸びる思いだ。 最後にThe Third Gallery Ayaにお邪魔して、綾さんにもご批評をいただき、美味しいチーズケーキと紅茶をご馳走になった。 今回の旅が自分にとって小さな転機になったことは確か。広告の会社に勤めている間に完全に損なわれてしまった高揚が、ここから作り始めることで戻ってくればいい、と思う。小林さんを始め、三日間にお話することができた多くの方々に感謝しつつ、最終の新幹線が待つ新大阪へ向かった。 [1月23日(月)/2006] 無題 軋るようなブルー、時折骨片のような雪が散りかかっては、フロントガラスの向こう側でするすると融けて消えていく。 今日は品川で半日の仕事。   [1月20日(金)/2006] 無題 今日は髪を切っただけ。身体の調子はもう大分いい。陰影のない一日。   [1月15日(日)/2006] 熱 昨晩、突然40度の高熱に見舞われて、救急外来に駆け込む(この前の冬は、この場所からそのままストレッチャーで運ばれていったのだった)。インフルエンザに違いないと思ったらそうでもないらしい。今日になって嘘のように平熱に戻ったので起き出してみると、TKCHさん、KBYSさん、KYMさん、それにKMさん(ずいぶん久しぶりになってしまいました)から、それぞれメールが届いていた。 少しずつ、素直に、眼と耳をチューニングしていこう。 [1月10日(日)/2006] Laundering 昨日は久しぶりの「見る会」があり、鈴木理策さんにお会いする。 時代の先端で本当に戦えるもの、そう信じられるものを作らなければ。   [1月2日(日)/2006] 無題 今日は午後から父の実家に帰省。中学二年になる従姉妹に少しだけお年玉をあげる。代々農家を営んでいる祖父母の家では、白菜の塩漬けや野菜のてんぷらなどが、驚くほどおいしい。漬け物の作り方だけは、折りを見てしっかり記録しておこう、と決意する。 祖父は戦中、近衛隊の補充部隊にいたらしい。赤坂の一ツ木に赤煉瓦と木造の兵舎があって、彼は木造の方に寝泊まりしていた。終戦間際には、平塚の市役所屋上で領空のウオッチ(見張り)を任されており、東京大空襲の日、爆撃機の大編隊が、ぎらぎら光ながら富士山を迂回していくのを見、相模湾で乏しい日本の戦闘機が次々撃墜されていくのを見た。 – – – 色々考えた結果、8×10のダゲレオタイプはしばらく放棄することにする。継続的に撮りつづけるためには、一日で2枚ないし3枚の銀板を磨く必要があるし、これにはやはり4×5inch版が最適だ。また、8×10のレンズの暗さが、モデルの静止時間をあまりにも長くしてしまうことにも、決定的な問題がある(クイック剤の研究が必要!)。来週にも、4×5版のコーティング・ボックスの改良型を設計することにしよう。 沈黙している。タブローとガラスの反射の背後に漂う、普遍的な幸福感の跡?みたいなもの。 常設展の写真室ではアジェの1973年版のプリントが展示されている。その中に、アジェ自身がガラスに映りこんでいる一枚を見つけ、嬉しくて声を上げてしまう。  

[12月29日(木)/2005] 無題   今日は今年最後の撮影、皇居のまわりを走って神谷町に向かう。 暮れの真昼、空ががらんとしている。   [12月26日(月)/2005] 声 品川での仕事が早く終わったので、夜、友だちのライブを聴きに行く(こんなふうに自分で時間を采配できる生活になったのだ、としみじみ嬉しい)。JPとTSKも来ていて、一緒のテーブルにつく。 一曲目を聴いて、その変化に少し驚かされた。声がもっとずっと深いところから繋がってきていて、半年かそれ以上の沈黙のあいだに、きっとそういう場所を通ってきたんだな、と思う。JPは少しダークになったね、と言っていたけれど、わたしは今の二人も好きだ。 – – – 書くことから遠ざかりすぎると、記憶と呼べそうなものは何も残らない。   [12月20日(火)/2005] 無題 オペラの仕事を終えて、思い出したように風邪を引いてしまった。 – – – 今年も art & riverbank 主催の企画展「depositors meeting」に参加します。   [11月14日(月)/2005] 無題 一昨日までの二日間は札幌での撮影。 昨日は平倉氏による「概念化」のワークショップ、越後妻有のメンバーでウィトゲンシュタインの精読を行う。想像力を広げる前に、そこに書かれたテクストの範囲に厳密に留まること、自分にとっては苦手な作業だったが、感覚を掴み始めると無性に楽しくなってきた。哲学を読むというのはこういうことだったのか! 次回のワークショップのテーマは「写真」でわたしの担当。限られた時間の中で何を伝え、共有できるか。   [11月9日(水)/2005] 無題 世界が息を潜め遠ざかっている、と感じることがあって、そんなときは自分も息を殺してじっとしている。 前触れとしての沈黙、うわべの平穏さ。   [11月3日(木)/2005] 無題 滞在先の大阪で、携帯電話が壊れてしまった。帰るまでどうすることもできない。 通信が途絶するということは、モノローグとダイアログの境界線が溶解することだ。   [10月31日(月)/2005] 無題 「わたし」を何者でもない者にするために移動するのだと、以前は思っていた。移動によって、否応なくそうさせられるのだ、本当のところは。 淀川をがぶがぶと浮き草が流されていく、遠い場所に来ているのだ、と、目の前の光景からも遠いところから、にじむように感覚している。わたしがわたし自身に追いつかないくらい早く、移ろっていけるならそれでいい。   [10月30日(日)/2005] 浮遊 撮影先の大阪から更新。来月5日までずっと、新大阪のプラットホームが見える部屋に滞在することになる。残念ながら今回はこちらの友人たちに会う時間はなさそう(退職後、改めて来阪します。その折に、また)。 多忙の中での移動は、水の中のダクトを通っていくみたいに淡く、いま、わたしはどこにもいないのだ、という感覚が伴う。   [10月17日(月)/2005] 水面下 長い潜水状態を経てずいぶん経つ。意識の遠いへりで、時折雨音が聞こえるらしい。やらなくてはならないことが本当にたくさんあり、弾丸のように進む。 – – – 現在所属している広告写真の会社を、来月末で退社することに決まった。会社からは今後も多少は依頼を受けることになるが、これからはひとりでやっていく   [10月2日(日)/2005] 無題 午後から撮影、暑すぎてなにも見えない。身体が動かない。   [9月27日(月)/2005] 無題 夜、『ヘンゼルとグレーテル』の打ち合わせ。恊働することは、ひとや自分の時間の大切さ、生活の重さを一部分共有するということだ。だから、自分一人でものを作るのとは、時間とお金に対しての意識が違ってくる。物理的、時間的制限と作り手たちが超えなくてはならない仕事の質について、よく認識する必要がある   [9月25日(月)/2005] 無題 すべてが不確定であり、ひとつの道筋からよその道筋へと大きくカーヴしていくこと、その悦び。ゆっくりと手のひらに還ってくる。 不安は片時も身を離れたことがない、なぜならそれはわたしたちの眼でもあり、生まれつきの傷のように、ずっと開きつづけているからだ。   [9月24日(日)/2005] 砂床 石内都さんの写真を見るため近美へ。7月末に行われたアーティスト・トークが映像になっていて、肉声を注意深く聴く。 35mmのネガから大伸ばしされたプリントの前に立ちながら、この作家は、モノクロームの生理を、撮る過程からいかにも自然に感じ続けてきた人なのだと思った。「織物のような」粒子のざわめきが、対象をその表面そのものへと、美醜のほんの僅かな手前で押しとどめている。それでももちろん、クローズアップの手足であり、喉首の傷痕であり、濃い陰影を含んだ壁面であるそれらが、かたちや意味を失って抽象化されているわけではない(だからアレ・ブレとは全然関係ない)。そうしたことの見えないボーダーラインに、近づけばコロイド状に雲散してしまう、イメージの鏡が立っている。そういう場所にいなければ、いまモノクロームで撮る必然性なんてあまりないのだろう。   [9月18日(日)/2005] まずは柔軟体操 日中は『ヘンゼルとグレーテル』のための撮影、新宿を歩き回る。こういう街は、最初の30分くらいが勝負だと思った。長く歩くうちに何もかもが写真の括弧で括られてしまい、消費されてしまった、と感じるから(この街はカメラをぶら下げている連中が異様に多いのが腹立たしい。この世界に撮影者は一人で充分だ)。 – …

[12月12日(日)/2004] 無題 午前中から、横浜美術館でダゲレオタイプのテスト。アトリエ担当のSKさん、SKRBさんに、磨きから定着までひととおりの過程を体験していただいた。 生憎の天気で露光時間が20分にも達したが、SKさんは樹木に寄りかかって微動だにしない。暗箱の底に、ある生の純粋な累積、時間の束を凝集すること。他者の生の時間を、運動を奪い去ること、その行為のなんという重さ。   [12月11日(土)/2004] 無題 わたしの手や足だけが、よくわからない時間の経過を渡っていく。意識の芯はほとんど眠っているんじゃないか、と思う。   [12月5日(日)/2004] 写真の場所 目覚めて庭の窓を開けると、風に千切られた植え込みが痛々しい葉うらを見せており、ねっとりと春の陽気を孕んだ空気が部屋に流れ込む。乱流の裂れが上層からふきつけ、まるで新しくなった地上をざらざらと洗っていく。 光の爆発のただ中で今やすべてが等しく、わたしたちは眼で触れ世界をまさぐる。   [12月1日(水)/2004] 圧搾 維持のための制度が個々の生をじわじわと圧搾していき、また、システム全体に私たち自身が深く加担している、という事実。生の時間は維持の必要条件でも逆接でも決してなく、よく似た別種の問題なのだ。   [11月28日(日)/2004] 無題 同志社大での写真研究会に参加するため、週末は京都へ。想像を超える混雑の中、市内に宿が見つからず大原に逗留する。思いのほかいい宿で、たくさんの豆腐を食べ、夜道を辿って寂光院に水琴窟を聴きに行く。 研究会の終了後、佐藤守弘さんのご自宅にお邪魔していろいろな素敵なものを見せていただく(ありがとうございました)。ティンタイプの後処理と、アンブロタイプについて調べなくては。 – – – 本日の小林美香さんによるデジオ(インターネット上で配信されるラジオ)に出演しました。 https://www.think-photo.net/mika/dedio/ 自分の話し方は、語尾が聞き取りづらい。   [11月20日(土)/2004] すすはらい 長いブランクをおいて、路上でのスナップショット(そろそろ別の呼称を考えなくては)を再開、思いつきでパノラマ装置を使ってみる。眼に手足がついていかず、収穫はまったくなし。   [11月16日(火)/2004] 無題 「見ないこと」は「見ること」の非選択状態ではない。メルロ=ポンティ?   [11月15日(月)/2004] 蝶 『牛腸茂雄作品集成』(共同通信社、2004)を買う。距離のなんという怖さ。腸-gutのように厳しく、薄く黄色くはりわたされたまなざし。 – – – 書くのを怠るべきじゃない、抵抗の手段としての記入、たとえ力尽きたピリオドひとつであっても。 一日に16時間も労働していて、眠りは白昼の海を越える蝶のようにあやうい。   [11月14日(日)/2004] 無題 松涛美術館、安井仲治。 痕跡を痕跡の意味として捉えるとき(単なる事実、表面/surfaceとしての痕跡ではなく)、そこに現在との照応関係がある。かつてそこにあったものと関係性を結びうるかどうか、きわめて微妙なポジションに立たされるとき「不安」があり、その不安の中で意味が膨張を始めるのであって、何かが完全に整理されてしまった後、こと切れてしまった後ではそういうことは起こりにくい。 私がグラフィカルな仕事(写真における)に一様な不毛さを見るのは、不確かさから生じる対話によって過去と現在の関係性を取り持つ、写真のもっとも重要な機能が、無造作にそぎ落とされていると感じるからだ。 たとえば60年という時間、たかだか人一人の生にも満たない時間のなかに、驚くべき断絶がある。コンポジションはその断絶を経てすっかり色あせてしまい、サーカスのコンタクト・シート、不確実なまなざしを捉えた数枚の肖像だけが、出会いの不安の中で、今、わたしたちに向かって対話の眼を開くだろう。   [10月18日(日)/2004] 無題 よく冷えて乾いた空気に気持ちが軽い。 午前中、横浜美術館へ。階下で子供たちの歓声が響き、壁に古代の稲穂が吊してある室内で、市民のアトリエのSKRBさん(岩手の、モリオカの、美しい夏草のこと。)、SKさん(デリダの話)にお会いする。イメージと言葉の周辺で、あたらしい試みを共有できればいいと思う。 夜からはart & river bankにて横浜写真会議。二ヶ月参加しない間にずいぶん人が増えた。どうやって対話の場を形成していくか、考える必要がありそう。   [10月12日(火)/2004] Unknown Rivers 遅い時間に仕事を終え、いくら待っても電車が来ないので、歩いて雨に煙るTM川を渡る。 (くり返し対岸へと渡りつづけた。どこへ行くにも、ひとつの場所を除いては。あれはなんという致命的な南進だったろうか、方角も知らずに。) 嵐も過ぎ去ったというのに、ざあざあと瀬音を立てて濁った水が奔っている。 (霧のメコン、泥のメコン……、そんなふうに呟きながら。 ゴングル、ゴングラ、……あれはちょうど正午で、オールド・ディストリクトの河岸の畔を、 島のように豪奢な浮きくさの一塊も運ばれていくのだった、)   [10月11日(月)/2004] その名にちなんで 昨晩は遅くまで友人たちと飲む。思いがけず話題に上ったサーカスのイメージが、夜明け前の鈍い夢のなかに滑り込む。 – – – E・ホッファー『現代という時代の気質』、ジュンパ・ラヒリ『その名にちなんで』を読み始める。ラヒリの方は面白いかどうかまだ分からない。書き手が、生活のなかに置かれたひとつひとつの現実(それらはなんて強靱なんだろう)を捉えようとしているのは確か。 ベンガルのどこかで機関車が脱線する場面まで読み、かつてラジャスタンで見た交通事故を想い出す(砂嵐の去った午さがり、ハイウェイの傍らで幼児が死にかけていた。鉄鍋に油の灼ける音と甘たるい揚げ菓子の匂いが、茶屋の軒下からあたり一面に漂いだしていた……)。 インド人が自らの郷里に向けるまなざしの静けさには、いつも、新鮮な驚きがある。わたしたち異邦人は(そして、わたしたちは互いに異邦人なのだった、)その静寂に身を移すことはできない。永遠に。 – …

[12月31日(水)/2003] 灰色 久しぶりにまとまったプリント作業をする。プリントにはある程度明確な戦略が存在するので、きちんと思考すれば大抵上手くいく。以前は単純にD-Max(最大黒)を基準に考えていたのだが、これからはもっとグレー部分を重視しよう。印画紙上のハイライトとシャドウは破裂したまま文字のように死に絶えていて(だからこそそれらが必要なのだが)、グレイの繊細な階調が、あらゆる感情と静かな注視の可能性を孕んでいる。   [12月27日(土)/2003] 無題 マクロ機能付きの35-70mmバリオゾナー。現在構想している「記憶地図」(本当は「記憶」と書きたくない。あたらしい体験に対して、まったく別の名を発明しなければならない)を描き始めるために、手に入れる必要を漠然と感じていたからだ。 – – – 塩の城のように硬質に輝く雲を窓外に眺めながら(窓があるというのはいい。windowの語源はvindauga、風の眼という意味だ、と知った)、二月までにしなくてはならない仕事を書き出す。   [12月25日(木)/2003] Maison de Hermes U、Kとともに、銀座で杉本博司「歴史の歴史」展を見る。『海景』シリーズは揺るぎないシンプルさで、心静かに作品の前に佇むことができる。しかし、思わせぶりなオブジェは完全に場から浮いており陳腐。 古美術の女神像、掛け軸なども展示されているが、その存在感が写真とオブジェの陳腐さのおかげで際だつ結果になっており(特に『時間の矢』でフレームに使用された火焔宝珠形舎利容器残欠の火焔の造形が圧倒的に力強く、中央の写真が落ちくぼんで見える)、作家の意図に添った結果になっているかどうか、疑問に思う。大型カメラで、肖像画や博物館の展示をモノクロ写真に変換したときに生じる「生っぽさ」は面白い。 – – – 有楽町でタイ料理を食べ、Kからいろいろ『Aria』に関する批評を聞く。いずれにしても、あの作品を一度頭から消去して、はじめから別個のものを作ることになるだろう。そうでないと面白くない(作業も、出来上がってくる作品も)。   [12月22日(月)/2003] SOLSTICE 一年で最もか細い陽の光を求めて、F..から神宮前まで歩く。今日は「色」(表面の色彩ではなくて、空気を透かした光の組成みたいなもの。上手く言えない。)が良く見える気がしたので、微粒子のエクタクロームを使う。仕事以外でカラー・フィルムを使うのは春以来。 指先のふるえと瞬き、淀みないステップの中だけ、そこだけで生きている。作品だけに語らせることができ、それ以外の方法で誰にも知らせる(でも何のために?)ことはできないのだ。     [12月21日(日)/2003] 検証 映画『Aria』上映会とシンポジウムが終了。ファイナル・カットは、完成形からは程遠い代物になってしまった。当初から意図していたプランが幾つも抜け落ち、作品内部の緊張関係に綻びが生じている。いずれにしても、もう一度初めから編集その他を検証し直さなくてはならない。 上映後、写真に関していくつかの暖かいコメントをいただく。二年間の必死の移動が伝わったことはとても嬉しい。 シンポジウムは、問題点があからさまに露呈する結果になった。対話と言いながら私の発表は独善的だった。 寡黙な方向へ、という吉増剛造さんの短い言葉を、鏃のように胸に抱いて、すぐに次へ向かおう。   [12月14日(日)/2003] 無題 風邪の兆候が出ているのに、不思議なことに身体はいつもより軽快。夜明け前、Uと共にS..池の撮影。 – – – 楊先生から電話、近藤春恵先生からメールをいただく。20日の上映会に来ていただけるらしい。背筋がいっそう伸びる。 – – – シンポジウムでは何を語り、何を伝えるべきか。わたしは研究者でも評論家でもないので、シンプルな言葉で話すしかない。どうすれば熱を伝えられるか、対話のための発話ができるだろうか。   [12月3日(水)/2003] ひとり遊び ひどい頭痛、昼過ぎまで寝込む(二日酔いではない)。外は私の好きな冬の薄曇りで、寒そう。表に飛び出したい衝動を抑えつつ、ひたすら案内状の宛名書きを進める。指を使って字を書くのは官能的な作業。   [11月29日(土)/2003] November steps 雨で道は水浸しだが、気分は浮き足立っている。 – – – KWMR夫妻がカブールから一年ぶりに帰国したので、新宿まで会いに行く。TWR夫妻と講談社のSHMさん、KIDさんにもお会いする。KWMR夫妻は現地でカブール大で教え、識字率の上昇に寄与すると共に、アフガニスタン文学復興(?)のための新しいメディアを作ろうとしている。アフガン周辺では今でも、詩が日常レベルまで幅広く定着しているらしい。いずれ現代アフガン詩の邦訳を手にすることが出来たら素敵だ。 とにかく二人が無事だったのでほっとする(二人はミサイルを発射する攻撃ヘリを眺めながら、庭で歯を磨いていたらしい)。   [11月27日(木)/2003] 三日分 多忙というのも麻薬みたいなものだ。痺れが徐々に拡がり、無感覚が可能性を去勢する。 – – – 昨日は矢崎監督に同行して、徳田秋声邸のロケハン。わたしは映像の合間で使うポートレイトを撮影することになっている。本郷の大学を突っ切ってすすむ道、石造りのファサードが美しい。階段の壊れた石積みの隙間で、アロエが光を浴びて幸福そうにしている。確かにこの場所なら勉強したくなるかな。 – – – 『Aria』の案内が刷り上がる。色校の費用をけちったために、本機刷りで銀のインキが思うように乗っていない。ダゲレオタイプみたいに、光の具合によって字が読めたり読めなかったりする。Uと持って帰る道中、疲れが倍増。 – – – クメール美術のカタログばかり、毎日何度も眺めている。ジャヤヴァルマン7世像の頭部が、息がとまるほど美しい。私たちはこの顔にたどり着かなくてはならない、ギリシアの頭部ではなしに。そう考えるのは素敵なことかも。 – – …