撮影ノート
尻屋崎から大槌までの六月の旅を引き継いで、釜石から沿岸を南下して名取へ。
ソーダガラスのような東北の自然に、突如として原発や核燃施設や基地が挿入される。その唐突さは、それぞれの立地が天然資源や地層の安定といった地学的必然性と関係のない、政治的あるいは軍事的必然性によって選ばれたことから生じる。カネと権力によって造形された産業がそれらの場所を規定するのだとすれば、一方で、南北500キロにわたって海岸線を遮へいする防潮堤は、一見すると自然の驚異という必然性に規定され、カネと権力がほしいままに行使された場所である。
東日本の浜辺は消失した。砂礫の供給が止まり、著しく侵食され土砂によって汚染された。
防潮堤の国家プロジェクトは人命尊重の倫理に基づくが、その倫理から矛盾する二つの解釈が可能である。その絶対的な倫理は想定する時間の長さによって、真逆の解釈を導きうるということである。
今後数十年にわたって起こりうる余震を想定すれば、景観の悪化や石灰石の無尽蔵な採掘は許容されるべき犠牲になる。その解釈に従えば、国立公園の枠組みも、ラムサール条約によって保護されたはずの貴重な干潟ですら開発の手を免れることはなかった。わたしたちは、わたしたちに害をなす自然を完全に殺してしまうことにした。
何百年何千年という時間軸で考えたとき、東日本沿岸を覆い尽くす想像を絶する量のコンクリートがその製造過程や輸送過程で大気中に放出した炭素の規模、あるいは岩石の採掘によって消失した山林の大きさを考えれば、わたしたちはわたしたち人類のみならず、多くの種の滅亡を早めたことになる。
人命尊重の倫理は貧困や暴力、格差、差別、無関心、不注意といったヒトの罪に対して行使される基準だった。しかし、すべての海と河川と──数戸ばかりの海辺の集落から小さな沢に至るまで──コンクリートで調伏し渚と陸を遮へいする営みは、一線を超えた自然への敵意の表明にほかならない。
三陸海岸や仙台湾、相双の町々にはいくつもの震災以降や伝承施設、モニュメントや石碑(三陸津波のものも含まれる)が点在する。
御影石に刻まれた人々の名前──身も知らぬ人々の名前──から、わたしたちは失われたそれぞれの命の重さを受けとる。個々人の死を数え上げても、ひとつの災禍に集約される大量死のイメージが形作られることはない。その二つの死はまったく異なる死の概念であり〈数えあげること〉を拒絶する。
仙台にて。
太平洋戦争末期にアメリカ軍による戦略爆撃で灰燼に帰した都市は、戦後どこでもよく似た景観を生み出した。現代の都市の景観は多くの場合、文化的・歴史的蓄積の上に築かれるのではなく、その時々(十年程度?)に信じられた価値の上に築かれる。
震災後に沿岸の区々を特徴づけた著しい均一性は、後期資本主義と中央集権主義の価値観の表現である。その表現は、新しい家々の建材や商業施設の建築(どの町にもまるでそれが当然であるかのように、まっさらな商業コンプレックスが新設された)、一見す優しげであるが実際は冷たく鉄面皮な丸ゴシックによるロゴタイプの多用、「地域」「場」「コミュニティ」「ものづくり」といった陳腐な題目の組み合わせによって生み出されたプレハブ的表現である。
女川の有志によって建立された高村光太郎の散文を刻んだ石碑は、それらプレハブ的景観のなかにあってきわめて異質な価値を照射する。
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