環世界

環世界

環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。ユクスキュル/クリサート著『生物から見た世界』(序章 環境と環世界)、日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店、2017年.

今年十月、台南でひらかれた東アジア環境史学会で、藤原辰史さん、石井美保さん、篠原雅武さんの研究グループ(Anima Philosophica)に加えていただき、私もつたない発表を行った(*)。石井さんの嘆息するような美しい発表で「環世界(Umwelt)」という言葉をはじめて知り、帰国してすぐ岩波文庫の『生物から見た世界』を手にとった。
ゾウリムシからコクマルガラス、人間まで、それぞれの生きものはそれぞれの知覚に閉ざされた(またはそれぞれの知覚によって主体的に構築された)世界に生きており、ユクスキュルはその概念を環世界(Umwelt)と名付ける。

十二、三歳のころ、夢中で読んだ本がある。動物行動学者・日高敏隆とジャズ・プレイヤー・坂田明の対談が収められた『ミジンコの都合 (自然術) 』(晶文社、1990年)は、母のすすめで読んだファーブルやローレンツの本よりも、どういうわけかずっと強烈な印象を残した。子どもごころに深く刻まれた「動物には動物の都合があり、それは最大限尊重されるべきである──しかし、人間にも人間の都合がある。」という日高敏隆の思想と、環世界の概念がいまになって一つになり、なにかが大きく一周したような、不思議な感覚に襲われた。

「生きものの都合」とはなんとしっくりする言葉だろうか。三十五年くらいになる猫たちとのつきあいの中で、猫の都合と私の都合は不明瞭な外縁を形づくっており、所々が融合し、所々は柔らかく押し合って均衡を保ってきた。今年で十五、六になる猫のバロンを膝の上に抱えるとき、いつも、かれに去勢を──ご近所迷惑にならないように、という人間の都合を──強いたことが思いだされ、心がちくり、と痛む。たとえば猫たちの環世界から見れば愚鈍な大型ほ乳類にすぎない人間たちは、どこまで他の生きものに、都合を押しつけることが許されるのだろうか。そこに明瞭な答えはなく、例えば意識や痛覚、知性があるかどうか、といった単純な尺度があるはずもない。

成功大学前のカフェで石井さんに教えていただいた、アナ・ツィンの『スクミリンゴガイ・オペラ』(”Golden Snail Opera: The More-than-Human Performance of Friendly Farming on Taiwan’s Lanyang Plain”)を見る。ゆっくりとねじれながら進むカタツムリの視線、あるいは並足と駆け足を自在に切り替えて疾駆するイヌの視線に、得体のしれない感動を覚えるとき、私は、私たちの環世界の貧弱さと、人ならぬ環世界へのひらかれの可能性の両方に、揺さぶられている。

*ARAI, Takashi「Science Fiction Films and Repose: The Narratives, and Images of Government, Scientists, Media, and Citizens, in First-Generation Godzilla and Shin Godzilla」, 2019.

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