Diary

HIAP 14日目 (備忘)

Helsinki International Artist Programmeでの滞在がちょうど2週間となり、Olkiluotoでのプロジェクトに出発する日も迫って来た。到着してすぐにダゲレオタイプ用のコーティング・ボックスの製作にとりかかったものの、モノの少ないフィンランドで思ったより時間がかかってしまった。それでもHIAPスタッフのSampoさんの助けをかりて資材を調達し、明日には完成する予定。 先週木曜には、同期のレジデント・アーティストたちと一人ずつプレゼンテーションを行い、とくに共同体による喪をテーマに活動する二人組のアーティストMourning Schoolに共通の関心を見出す。 もともとフィンランド拠点で長期滞在を行うグループには日本人テキスタイル作家の吉澤葵さんもいる。 アーティストの情報は→ https://www.hiap.fi/residents/ 昨日はPurdy Hicks Galleryの紹介で写真家のJorma Puranenさんに会う。彼の作品は学生時代から好きだったのでとても嬉しい。ラップランドでも長年プロジェクトを行っており、実際に撮影に向かうにあたり懇切なアドバイスをいただいた。 Antropomorphic Rocks(擬人石)はサーミ人の聖地/祭壇(Seita, Sieidiなどと呼ばれる)であり、少なくとも旧石器時代から存在したと推測される自然物モニュメントの一種である。サーミの自然物モニュメントはこの他に、樹木や水辺の切り立った崖(音響と関係があるする説が有力)、島全体、場合によっては携帯可能なサイズの石であったりと、ときに近代人の眼からはそれと認識不可能なものも多い。狩猟や漁撈の折、こうしたSieidiに向かって儀礼を行う伝統が記録されている。18世紀のキリスト教化によって失われた儀礼や伝承も多いとのことで、これらの聖地における現代の語りもプロジェクトに先行して調査できればと思っている。 本プロジェクトの大きな目的は、向こう10万年という不可能な年月を耐えるとされる人の手によるモニュメント・Onkaloと、自然の中で時を超越して存在し続ける擬人石モニュメントを対置し、想像不可能な過去と未来の時空間(とそこに存在した/するかもしれない人類)とどのようにコミュニケーションすることができるか思考することにある。実はこのプロジェクトは2017年から構想していたのが、パンデミックや生活上の危機からなかなか実行に移せないでいた。HIAPでの活動の機会を得て実現できなかった仕事にようやく取り掛かれることが、心底ありがたい。 原発と世界で唯一の核廃棄物最終処分場OnkaloのあるOlkiluoto周辺には一般向けの宿泊施設がないので、20kmほど南の街RaumaにAirbnbを確保。9月27日にはプレス向けのツアーがあり、参加することになっている。2017年11月以来の訪問になるが、2023年に稼働開始を予定するOnkaloに入れる最後のチャンスになるかもしれない。

HIAP's studio in Suomenlinna

ヘルシンキ滞在7日目、早くも時間が、季節が惜しい。島の東の入江から陽が上り、西の地平線に、ヘルシンキ郊外の平坦な森へ、陽が沈む──滑らかな日時計の盤面の上の暮らしは、それでも、東京圏の焦燥から果てしなく遠い。 この時期みなが口を揃えて言う ruska は日本語のガイドブックで「紅葉」と訳されるが、元はサーミ語形容詞の ruškat(茶色い)が語源でその程度は ruškadit、ruškadeamos と極まっていく。 昨日まで吸い込まれそうな青空だったのが今日は乳白の雲に覆われ風も出ている。明日には雨になり、やがて長い夜の季節がやってくる。Olkuluoto でのダゲレオタイプ撮影がうまくいくかどうか。 — 8×10インチ版プレート用のコーティング・ボックスの輸送ができなかったので、こちらで製作することにした。フィンランドには Home Depot のようなホームセンターはほとんどなく(空港の近くに Bauhaus があり、街中にいくつかハードウェア店があるが品揃えは乏しい)、Amazon のような大規模オンライン・ショップもない。加えてわたしのスタジオは島で車の乗り入れが原則できないので苦労は多い。考えてみれば、どこでも車で買い物に出かけてゆき、なんでも一日や二日で配送される日本やドイツの、アメリカナイズされた消費文化が異常なだけだ。 — テストを兼ねた毎日のダゲレオタイプは概ね順調、しかし金調色(gilding)で問題が発生し数枚の素晴らしいプレートを駄目にした。 調合液のpH まで調べても原因がわからなかったが、薬局で購入した精製水の問題と判明。局員が distilled water と間違えて sterilize water を持ってきたことに気づかなかった(後者は傷口の洗浄などに使う精製水でイオン除去を行っていない)。中央駅の Tokmanni というディスカウント・ショップでバッテリー補充液を見つけ、ようやく解決。 購入リスト: 針葉樹板材(5mm, 10mm) 板ガラス 燃料用アルコール ガス・トーチ シリコン・グルー 木部ニス、刷毛 マイク・ポール 折りたたみ式ワーク・ベンチ

Color Gradient

9月7日早朝、成田からの直行便でヘルシンキに到着。 Tokyo Arts and Spaceからの派遣で、これから3ヶ月間のレジデンシー・プログラムHelsinki International Artist Programmeに参加する。わたしのスタジオと居室はヘルシンキからフェリーで十数分ほどの島、Suomenlinnaの要塞の中にある。 湖水のように動かない海の果てから陽がのぼる。一点の染みもない青空が十二時間もつづく昼の世界に君臨しつづけ、と思えば不意に、薄暮の澄み切った階調のただ中に、もう月と木星が輝いている。 眼から忙しさを取りのぞき、手を動かしつづけること。 — 昨年冬から今年の夏が終わるまで、日本の入国制限との闘いにほとんどすべてを費やしていた。 春までの顛末は岩波noteに寄稿したが、それからだれとだれに何を話し、何を話していないか、もう覚えていない。 アクティヴィズムの過程で出会った素晴らしい仲間たちと一緒に政治家や官僚たちと交渉し、当事者たちと情報を共有しつづけた。日本はいまだ国境を開いていない。それでも、限定的な渡航が許されるようになったのは、最初期にわたしたちが善戦したこと、そして官邸を除く政府・関係省庁、家族の人権を軸足に置きつづけてきたわたしたちと関わりのないやり方で働きかけを行ってきた、財界の圧力団体の利益が一致していたからだ。 沈黙もまた抵抗の方途だとして、人々は何に抵抗しているのか?ほとんどの場合、その抵抗の前哨戦は自我の境界線と同じなのだろう。そして、多様性とか循環といった包摂(inclusiveという語がすでに限界をあらわにする)に関わる実践が、個々人の自我の拡張によってもたらされるべきでないことは、いまだにわたしたちが固執しつづける国家や民族のイメージによって端的に示される。 — 他者たちが川床の礫のごとく、世界に敷き詰められている。 石たちは早瀬の中でひしめき叫び声をたてて身を削る。 政治をあきらめること。 他者を、すなわち自己の仮構をあきらめること。 鉄の鋏で切りひらかれ、始まりと終わりのはざまで死にゆく時間のリボンを結びなおすこと。

釜石から陸前、石巻、名取から相馬へ。十年前の光景を鮮明に覚えているのに、眼前の風景はまるで見知らぬ場所のようだ。相馬まで旅を続けて集中の限界を感じ、南相馬から川俣を抜けていったん東北道で帰ることにした。まだ陽が高かったので、途中飯舘村でヤマユリをさがす。 震災後最初の夏、飯舘村長泥でこの花に出会ってから毎年のようにヤマユリを撮影してきた。 ヤマユリは不思議な花だ。花粉の運び屋はアゲハチョウで、あの豪奢な羽に花粉がしっかりと残るよう様々な工夫をしているらしい。そしてヤマユリはアゲハチョウだけでなく、ヒトの方に顔を向けているような気がしてならない。 アマユリは下草の刈られた日当たりのいい斜面を好むので、よく道路の法面や人の手の入った里山の樹間に大輪の花を咲かせている。かつて飯舘にたくさん自生していたヤマユリは年々減少している(きちんと調査した訳ではないが)。人口が大きく減った飯館村では道路端の荒れ具合が目立ち、山あいの家はすっかり草生して背後の山森に飲み込まれつつある。ヤマユリは、ヒトの世界に隣接した自然があってはじめて繁栄する種なのだろうか。 かつてヤマユリを見かけた場所をしらみつぶしに車で巡る。遠くからでもよく目立つその花の白さが、しかし、視界の端にうつることはなかった。天候が崩れはじめ半ばあきらめかけたころ、綿津見神社の裏手の資材置き場に一輪、まだ蕾のヤマユリが青白く立ち上がっているのが見えた。下部が大きく脹らんでやや反り返ったその蕾は、どこか鯨の姿に似ていると思った。 宿根草であるこの花が来年も帰ってくることを念じつつ花茎を切り、車の助手席に水を満たしたペットボトルとシートベルトを当てがって連れ帰る。

撮影ノート

撮影ノート 尻屋崎から大槌までの六月の旅を引き継いで、釜石から沿岸を南下して名取へ。 ソーダガラスのような東北の自然に、突如として原発や核燃施設や基地が挿入される。その唐突さは、それぞれの立地が天然資源や地層の安定といった地学的必然性と関係のない、政治的あるいは軍事的必然性によって選ばれたことから生じる。カネと権力によって造形された産業がそれらの場所を規定するのだとすれば、一方で、南北500キロにわたって海岸線を遮へいする防潮堤は、一見すると自然の驚異という必然性に規定され、カネと権力がほしいままに行使された場所である。 東日本の浜辺は消失した。砂礫の供給が止まり、

ひどい時代が過ぎるのを待ってはいけない/それは川岸で水が引くのを待つのとおなじだ/川は永遠に流れつづける (トーマス・ハイゼ監督『ハイゼ家 百年/Heimat ist ein Raum aus Zeit』作中の詩) シアター・イメージフォーラムにて『ハイゼ家 百年/Heimat ist ein Raum aus Zeit』(2019)。 人間は時代のゴーストから決して自由でないということ、そのゴーストは転々と姿を変えながら今もわたしたちの頭上にたなびいているのだ、ということを強烈に思い知る。シンプルな風景と歴史の耐えがたい見えづらさ。3時間半の旅を経てついにわたしたちの時空に投げ出される。ラストのカメラ・ワークの怖さ。

二つの「日誌」と「作業」について

今朝、ふたつの「日誌」が届いた。丸木美術館学芸員・岡村幸宣さん『未来へ 原爆の図丸木美術館学芸員 作業日誌2011-2016』(新宿書房、2020年)そして東京新聞記者・片山夏子さん『ふくしま原発作業員日誌 一エフの真実、9年間の記録』(朝日新聞出版、2020年)で、前者は岡村さんからご恵贈いただいたもの。 いずれも東日本大震災後のオーラルヒストリーなのだけれど、前者が岡村さん本人の日々を綴ったモノローグで

千人針

パンデミックの影響で、4月以降の展覧会や講演がすべて延期かキャンセルになってしまった。「自粛」のため親しい友だちにも会えない暮らしはさみしいが(それにしてもなぜ「自粛」なのか?自粛はふつう、なにか罪滅ぼしのための行為ではないのか)、自分が隠者のような生活に少しづつ順化していることを感じる。 いま、唯一残った横浜トリエンナーレのための作品を作っている。戦時中の千人針を主題にしたダゲレオタイプ・シリーズ、そして映像の二つの柱で、他者の苦しみの記憶への、それぞれモニュメンタルなアプローチ、非モニュメンタルなアプローチが拮抗する展示空間になるだろう。 ダゲレオタイプは神保町の戦争ものの古物を扱う店で仕入れた千人針を、一針ずつ、1000枚の小さな銀板に直接撮影している。なぜわざわざそんな苦労を、と自問しながらも、玉結びを四倍のマクロレンズで覗き込むとファインダー越しの視界に圧倒される。きつく結ばれた握りこぶしのような結び目、いまにも抜けてしまいそうな頼りないもの、何重にも絡まって奇天烈なこぶのようなもの──千人の女たち(もっとも寅年生まれの人は年齢の数だけ縫えたそうなので、実際の人数はわからない)生々しい息づかいと個別性に、膨大で単調な作業であっても飽きることはない。

なんだか顔がヒリヒリするので鏡を見たら、額から頬にかけて軽い炎症がひろがって所々皮膚が剥けている。はじめダゲレオタイプの薬品のせいかと思ったが、どうやら原因はフラッシュ・ライトの閃光だったらしい。千人針の縫い目ひとつを四倍のマクロレンズで撮影しているので、ただでさえ感度の低いダゲレオタイプに露出倍数がかかり至近距離から1キロワットの照明を何発も焚く必要がある。自然とカメラのそばに顔を近づける格好になるので、顔の上半分がフラッシュ・ライトで火傷しまったらしい。念のため視野の外側やカメラをアルミフォイルでガードしているのだが、昨日は焦げ臭いと思ったらフォイルをとめていたテープから小さな炎が上がっていた。きれいな青い火で現実味がなく

広島での撮影終了

千人針のための映像作品、広島での撮影が無事終了しました。炎天下出演やご協力、取材いただいた皆様、そしてほとんどすべてのご縁を運んでくださった演劇家の土屋時子さん、たいへんありがとうございました。 2回目となるサウンド・エンジニア山﨑巌さんと映像作家・中川周さんとの協働は学ぶことが多し。そして『オシラ鏡』主演の高山君が、今回は助監督として活躍してくれました。 ・土屋時子さんの本『ヒロシマの『河』 〔劇作家・土屋清の青春群像劇〕』(藤原書店、2019) ・朝日新聞広島版『「千人針」テーマ 被服支廠で撮影 新井卓さん』 ・中国新聞『被服支廠戦時の記憶 映像監督新井さんが撮影』 ・毎日新聞『支局長からの手紙 場所の持つ力/広島』