Review

映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督、2018)イメージフォーラムにてようやく観る。 映画を観て泣くことはあっても、情けなさから涙したのは初めてだった。泣きながら、この迫り来る羞恥の感覚は彼/彼女ら「歴史修正主義者たち」をわたしが「日本人」というナショナルな感覚で自己同一化するために来るのだろうか、あるいは、もっと直情的な怒りの発作なのか、捉えきれないまま身もだえし苦しみつつ観た。 映画に登場する「歴史修正主義者たち」の言動が極めて醜劣であることは、幸いな偶然だったのかもしれない。しかしそれは、彼/彼女たちと逆の立場の人々にとっては危険な罠でもある。 デザキ監督は「ある意味、論争の場は私の頭の中にあったと言えるでしょう。否定論者と慰安婦を擁護する側の双方が、自分たちの主張が正しいと私を説得しようとしていましたから。」(1) と語っているが、「主戦場」は常にわたしたちの眼前で相対化され編集されつづける〈記憶〉と言説の現場にある。その不分明な場所で本当に信頼に足る言葉と態度とはどんなものか、本作に登場する27人の語り手の声に耳を澄ませれば、明らかである。 (1) 大島新『従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で”あんなインタビュー”が撮れた理由 プロパガンダ映画か、野心的なドキュメンタリー作品か』文春オンライン、2019年6月11日、 https://bunshun.jp/articles/-/12302 (2019年9月12日閲覧) — 最近は10月の東アジア環境史学会で発表するペーパー、民博の共同研究の論文のほか、現代詩手帖の連載、また共著と慣れない執筆の締め切りに追われて、他のことはほとんどできていない。 それでも書く、という仕事は、日常につらい出来事が重なってもどうにかできるらしく、それで救われているのかも、と思う。

荒木経惟「総合開館20周年記念 荒木経惟 センチメンタルな旅 1971-2017-」東京都写真美術館(8月12日訪問) https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2795.html 荒木経惟の写真を見たのは、まだ大学に通っていた90年代末ころで、友人に『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991)を見せてもらったのがおそらく最初だった。モノクロの端正な画面にとらえられた<私生活>はその意味するところ──ここに写された荒木の妻・陽子はすでに亡くなっていて、その喪失の経験とその事後=現在において、写真家と見る人の時空間が地続きにされてしまうということ──によって、没入していく感情と同時に、かすかな違和感──見も知らない他者の生き死にを、当人に関係なく覗き見すること、そこから短絡的にカタルシスへ、昇華された感覚にたどりついてしてしまうことへのうしろめたさ──を持ったことを覚えている。

Camera Austria International 133 | 2016 Book Review “Shigeo Gocho 1946-1983” (2004, K.K.Kyodo News, Tokyo) Takashi Arai “Behind the surface layer of dispersed things in daily life, occasionally, the incomprehensible shadows of human existence flit through.” Shigeo Gocho [Nippon Camera, February Issue, 1980.] Shigeo Gocho was born in 1946, just a year after Japan’s surrender and the end of WW2. Behind the high fame of his contemporaries, such as Daido …