Diary

千人針の五銭硬貨 / 5 sen coin sewed on a Sen-nin Bari (bellyband with 1000 stitches)

千人針に縫い付けられた5銭硬貨、「死線(シセン)をこえる」の意。このほか兵士を守るとされる女性の陰毛を縫い込んだ千人針や、戦場で渇きに苦しんだとき口に含んでその場を凌ぐため、梅酢に漬け込まれた千人針のオーラル・ヒストリーがある。 おおむね日露戦争くらいまで記録をさかのぼることのできる千人針習俗は、初期においては当局から非難される秘められた営みだったのが(千人針の祈りは最初期には徴兵忌避、その後「無事に帰還すること」に変容した。太平洋戦争後期の総力戦体制下ではひるがえって、〈銃後〉の結束を高めるため国家が推奨する活動となり、国防婦人会などを通して大量生産されるようになる。 ミクロ・レベルのナラティヴ/小さな祈り・善意/極小のマイクロモニュメントと、マクロ・レベルのナラティヴ/倫理規範/大規模モニュメントはいつでも対置されるわけではなく、連続するグラデーションの中に分かちがたく点在する。

横正機業場訪問@新潟県五泉市

千人針の映像の最後の撮影のためサウンド・エンジニアの山﨑さんと新潟県は五泉市、横正機業場を訪問しました。 明治33年(1900年)からつづく伝統を守り、現在は5代目になる横野さん兄弟が経営する絹織物工場。鉄と木で作られた機械が立てる

8月6日と本日8月9日、原爆の図丸木美術館のヴィデオレターが公開されました。 この2本は映像詩『オシラ鏡』のスタッフを中心に結成した映像集団「ハヤチネ芸術舎」による初の委嘱制作作品です。 今月後半から年末にかけて、丸木美術館のバーチャルツアー映像(といっても体裁は半フィクションの短編映画)を同じチームで制作します。 クラウド・ファウンディング・サイト「Global

『現代詩手帖』連載終了

2017年から3年間続いた『現代詩手帖』表紙とエッセイの連載が終了しました。2020年1月号から、表紙は画家の中上清さんへリレーとなったようで嬉しい。中上さんは、2006年に横浜美術館で川島秀明さん、藤井健司さんと一緒に滞在制作した折に出会い、美術の世界で右も左も分からず不安で一杯の時から、変わらず叱咤激励してくださった心の師の一人。 月に一度書くという初めての仕事は、思ったより何倍も難しかったが、自由気ままに試行錯誤できたのは、編集長の藤井一乃さんの懐の深さによるところに他ならず、本当にありがたい機会をいただいたと思う。涼やかなデザインの中に拙作を大事に融合してくださった清岡秀哉さんにも感謝。 2000文字足らずの連載に四苦八苦しながら、時折二十代を振り返りつつ書く時間は、いままで自分がどれほど多くのことを置き去りにしてきたか、直視する過程でもあった。これほど拡散してしまった自己の砕片を一つにかき集める手立てはあるのだろうか。答えの見つからないまま、まもなく、新しい一年が訪れる。

環世界

環世界のこの貧弱さはまさに行動の確実さの前提であり、確実さは豊かさより重要なのである。ユクスキュル/クリサート著『生物から見た世界』(序章 環境と環世界)、日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店、2017年. 今年十月、台南でひらかれた東アジア環境史学会で、藤原辰史さん、石井美保さん、篠原雅武さんの研究グループ(Anima Philosophica)に加えていただき、私もつたない発表を行った(*)。石井さんの嘆息するような美しい発表で「環世界(Umwelt)」という言葉をはじめて知り、帰国してすぐ岩波文庫の『生物から見た世界』を手にとった。 ゾウリムシからコクマルガラス、人間まで、それぞれの生きものはそれぞれの知覚に閉ざされた(またはそれぞれの知覚によって主体的に構築された)世界に生きており、ユクスキュルはその概念を環世界(Umwelt)と名付ける。 十二、三歳のころ、夢中で読んだ本がある。動物行動学者・日高敏隆とジャズ・プレイヤー・坂田明の対談が

一昨日、12月26日、バンカートスクール「〈見る〉ことをあきらめないための写真と言葉」全8回の講座が終了。参加メンバーそれぞれの写真(または映像)と言葉を交換しながら、写真史の断片の紹介、ベンヤミン、バルト、ソンタグなどのテキストを精読することを中心に初めてのプログラムを試みた。参加者全員がもつ眼の違い、それぞれの言葉のおもしろさに目を瞠かれ、トヨダヒトシさんにスライドショーを披露していただく夢のような回(12月2日)もあり、教えるというよりも自分自身が悩み学ぶ講座になった。 二人組になって一枚の写真を交換し、お互いの作品に言葉を添える実験は特に好評で、機会があればまたやってみたい。わたしのユリの作品には、高校一年生の受講生・守田有里さんが言葉を与えてくれた(画像)。「写真と言葉」というとき、その関係性は必ずしも作者という個人に閉ざされているわけではなく、他者への思いもよらない「ひらかれ」への広大な可能性が含まれていることに、改めて気づかされた。その気づきの感覚に、つづけていくための光が差し込む。