「IMAGO/イマーゴ」展:『オシラ鏡』上映会+トーク終了
9月21日土曜日、PGIにて映像詩『オシラ鏡』上映回と「IMAGO/イマーゴー」展で展示中のシリーズ「明日の歴史」でポートレイトのモデルになってくれたティーンエイジャー(当時)6人とのトークがあった。映画監督のYさんほか30名弱の来場あり、嬉しくも、やや緊張する。 若者たちは広島からオシラ鏡にも出演してくれた三人と、
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9月21日土曜日、PGIにて映像詩『オシラ鏡』上映回と「IMAGO/イマーゴー」展で展示中のシリーズ「明日の歴史」でポートレイトのモデルになってくれたティーンエイジャー(当時)6人とのトークがあった。映画監督のYさんほか30名弱の来場あり、嬉しくも、やや緊張する。 若者たちは広島からオシラ鏡にも出演してくれた三人と、
来月10月から、横浜BankART Stationにて、連続8回の写真講座を担当します。写真と言葉がテーマで、うち1回はトヨダヒトシさんのご担当です。 詳細、申し込みは下記から: https://www.bankart1929.com/bank2018/news/19_041.html バンカートスクール 2019年10月–12月 募集案内 「〈見る〉ことをあきらめないための写真と言葉」新井卓+トヨダヒトシ 写真というメディアは、一歩引いて眺めるとたいへん奇妙なものです。写真術が発明された19世紀当時から現在にいたるまで、カメラ=機械を通して記録される映像とは、人間にとってどのような意味を持つのか──たとえば、カメラは眼の延長なのか?写真は〈真実〉を語るのか?といった問題ですが──常に議論されてきました。写真の「よくわからなさ」とつきあってゆくためには、言葉が必要不可欠です。中平卓馬、森山大道、畠山直也、石内都、エルヴェ・ギベールらを例に出すまでもなく、多くの写真家たちは彼/彼女たちの独自の言葉を紡ぎ、またそれに頼りながら、撮りつづけてきました。本講座では、参加者が持ちよる写真の講評とディスカッションに加え、毎回の写真史の講義を中心に、撮りつづけるための言葉を模索します。 日時=10/21、11/4、11/18、11/25、12/2、12/9、12/16、12/23 いずれも月曜、19:30~21:00 会場=BankART Station 横浜市西区みなとみらい5-1 みなとみらい線「新高島駅」地下1F構内 料金= 1講座(全8回)12,000円 、入学金3,000円(初めての方のみ) 定員= 18名 お申し込み方法 ①受講したい講座名 ②お名前 ③ご住所 ④電話番号 ⑤メールアドレスを、メール・電話のいずれかにてお知らせください。 ※一旦納入された受講料は返金できません。 ※講座によっては別途材料費・資料代がかかる場合があります。 ※申し込み受付は定員になり次第、終了させていただきます。 お申し込み・お問い合わせ BankARTスクール事務局 school@bankart1929.com TEL 045-663-2812
映画『主戦場』(ミキ・デザキ監督、2018)イメージフォーラムにてようやく観る。 映画を観て泣くことはあっても、情けなさから涙したのは初めてだった。泣きながら、この迫り来る羞恥の感覚は彼/彼女ら「歴史修正主義者たち」をわたしが「日本人」というナショナルな感覚で自己同一化するために来るのだろうか、あるいは、もっと直情的な怒りの発作なのか、捉えきれないまま身もだえし苦しみつつ観た。 映画に登場する「歴史修正主義者たち」の言動が極めて醜劣であることは、幸いな偶然だったのかもしれない。しかしそれは、彼/彼女たちと逆の立場の人々にとっては危険な罠でもある。 デザキ監督は「ある意味、論争の場は私の頭の中にあったと言えるでしょう。否定論者と慰安婦を擁護する側の双方が、自分たちの主張が正しいと私を説得しようとしていましたから。」(1) と語っているが、「主戦場」は常にわたしたちの眼前で相対化され編集されつづける〈記憶〉と言説の現場にある。その不分明な場所で本当に信頼に足る言葉と態度とはどんなものか、本作に登場する27人の語り手の声に耳を澄ませれば、明らかである。 (1) 大島新『従軍慰安婦をテーマにした話題作『主戦場』で”あんなインタビュー”が撮れた理由 プロパガンダ映画か、野心的なドキュメンタリー作品か』文春オンライン、2019年6月11日、 https://bunshun.jp/articles/-/12302 (2019年9月12日閲覧) — 最近は10月の東アジア環境史学会で発表するペーパー、民博の共同研究の論文のほか、現代詩手帖の連載、また共著と慣れない執筆の締め切りに追われて、他のことはほとんどできていない。 それでも書く、という仕事は、日常につらい出来事が重なってもどうにかできるらしく、それで救われているのかも、と思う。
サン・アントニオのカボチャ、2014年10月3日(「毎日のダゲレオタイプ・プロジェクト」より) ダゲレオタイプ(銀板写真)、6x6cm Oct 3, 2014, Pumpkins, Artpace Sun Antonio. Form the series of Daily D-type Project, Daguerreotype, 6x6cm 百の太陽を探して 北アメリカ(十一)カボチャの名前/中編 新井卓 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.86掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2019/9/10) アメリカ、テキサスでは、大の大人たちが揃ってなにか仕事しようというとき、とりあえずジョークの一つも飛ばさなければなにも始まらない。そんな風なので、大して流暢に英語も話せない私は、滞在当初ずいぶん戸惑うことになった。 日本に落とされた二発の原爆にはそれぞれニックネームがつけられていた。リトル・ボーイ(チビ)とファット・マン(太っちょ)。広島に爆弾を投下したB29にはエノラ・ゲイの愛称がつけられたが、これは機長ポール・ティベッツの母親の名前である──これら兵器の馬鹿げた名前と、未曾有の大量殺戮行為。あまりにも理不尽な落差に、怒りを通り越して、その異様な気楽さはいったいどこから来るのか、私はその理由を知りたいと思った。
いまから百年のちに わたしの詩の葉を 心をこめて読んでくれる人 君はだれか── いまから百年のちに。 早春の今朝の歓びの 仄かな香りを、 今日のあの花々の、鳥たちのあの唄を、 今日のあの真紅の輝きを、わたしは 心に愛をみなぎらせ 君のものに 届けることができるだろうか── いまから百年のちに。 (ラビンドラナート・タゴール「いまから百年のちに」(原題「一四〇〇年」)『タゴール』42頁、森本達雄訳、岩波現代全集、2015年) A hundred years from this day Who are you that sits down to read my poem Filled with curiosity – A hundred years from this day. The joy of this newly minted spring morn Even a trace of that- One perfumed flower, one joyous bird song Just one of the colours that painted this day Not one of …
長いあいだ執着していたFacebookを離れることにした。テレビは地上波デジタル化についてゆく気がせず、人の尊厳を踏みにじるようなバラエティ番組や愚かな政治家の顔を進んで見たくはないので、ここ五年ほどは静かな居間に座っている。しかしたとえば地震があったとき、それがどのくらい深刻なのか画面のないラジオのニュースは、目の前に薄膜が張ったように現実の感覚から遠い。これでいいのだろうか、時代から遅れをとってしまうだろうか? でも、制御された情報によって見える時代の相貌とはなにか。SNSはかつて国境を越えた市民発信の情報源としてあたらしい希望に見えたが、