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連載/続「百の太陽を探して」#12

百の太陽を探して 福島(一)近づくこと、遠ざかること/前編 新井卓 (丸木美術館学芸員・岡村幸宣さんの同人誌『小さな雑誌』No.88掲載原稿より転載)、加筆修正箇所あり(2020/8/11) 南相馬では、鹿島区の農家民宿「森のふるさと」に逗留することに決めている。毎朝毎夕の豪勢な食事と森夫妻との晩酌が楽しくて、つい他の場所に滞在するのが億劫になってしまった。以来一人で旅するときも、友だちを案内するときも、いつでも「森のふるさと」である。 森家は柚木地区の小高い段丘の中腹に建っていて、それで津波の被害を免れた。眼下に広がる水田は津波の被害と放射性降下物の影響で作付けができない(※二〇一五年当時)。森家の水田では、かつて評判だった有機米の代わりに女将のキヨ子さんが染織に使う藍を育てている。 二〇一五年四月下旬、開通したばかりの常磐道を通ってもう何度めになるか分からない「森のふるさと」に向かった。常磐道には、いわきから相馬までのところどころに空間線量を表示した電光板が立っている。高いところで、毎時4.7マイクロ・シーベルト。ダッシュ・ボードに置いたガイガー・カウンターが耳障りな警告音を鳴らし始めた。 震災後ずっと心を支配していた恐怖と激しい憤り。あれほど強く日常を塗りつぶしていた感情は、いつの間にどこへ消えてしまったのか。福島以後の日常にすっかり慣れてしまった自分に対して私は焦りと苛立ちを覚えていた。危機の感覚が確実に失われていくいま、たとえば福島第一原子力発電所へ──出来事の中心に近づいていけば、何かが変わるのだろうか?その答えはおよそ明白ではあったが、それでも私は私自身の身体をそこへ、すべての中心へ向かわせる必要があった。 福島第一原発の現状をこの目で見るため、当初は接近可能な地点から無線操縦機(ドローン)を飛ばして撮影することを

8月6日と本日8月9日、原爆の図丸木美術館のヴィデオレターが公開されました。 この2本は映像詩『オシラ鏡』のスタッフを中心に結成した映像集団「ハヤチネ芸術舎」による初の委嘱制作作品です。 今月後半から年末にかけて、丸木美術館のバーチャルツアー映像(といっても体裁は半フィクションの短編映画)を同じチームで制作します。 クラウド・ファウンディング・サイト「Global

横浜トリエンナーレ2020「AFTERGLOW」が始まりました

17日、横浜トリエンナーレ2020「AFTERGLOW-光の破片をつかまえる」が開幕しました。この状況下で事故なく芸術祭が開いたこと、会場に並んだ作品たちを前に、普段の展覧会であまり感じることのない感慨を覚えました。 私の作品は美術館のエスカレーターを上がったところ、竹村京さんの作品と共鳴する空間で展示されています。今回は千人針を主題にした作品です。総合キュレーターのラクス・メディア・コレクティヴの「ソースの共有」に倣って本ブログにリサーチ・ノートをアップしました。 入場には事前予約が必要です。10月までの会期中、無理のないタイミングでぜひ来場ください。

リサーチ・ノート:千羽鶴・千人針 新井卓 (1) 戦争や災害にまつわる場所に捧げられ、病気の快癒や長寿を願って個人に贈られる千羽鶴の習俗は、太平洋戦争後、広島の原爆被害によって亡くなった少女、佐々木禎子から広まったとされる。1954年8月6日、2歳で被ばくした禎子は十年後の昭和30年(1955)に白血病が判明、広島赤十字病院に入院する。入院中、見舞客や入院患者に、折り鶴を千羽折れば元気になると教えられ、禎子も折り始めたという(2)。はじめ〈当事者〉である禎子が自身の延命を願って折った千羽鶴は、禎子の物語とともに国内外に広く知られるようになり(3)、いつしか〈非当事者〉が〈当事者〉へ捧げる記念物、国民的習俗として定着するに至った。現在、禎子をモデルに作られた広島平和記念公園の「原爆の子の像」には、国内外から年間約1,000万羽、重さにして10トン以上の折り鶴が届けられるという。(4) 民俗学者のジャック・サンティーノは、人々が感情に衝き動か

横正機業場訪問@新潟県五泉市

千人針の映像の最後の撮影のためサウンド・エンジニアの山﨑さんと新潟県は五泉市、横正機業場を訪問しました。 明治33年(1900年)からつづく伝統を守り、現在は5代目になる横野さん兄弟が経営する絹織物工場。鉄と木で作られた機械が立てる

千人針の五銭硬貨 / 5 sen coin sewed on a Sen-nin Bari (bellyband with 1000 stitches)

千人針に縫い付けられた5銭硬貨、「死線(シセン)をこえる」の意。このほか兵士を守るとされる女性の陰毛を縫い込んだ千人針や、戦場で渇きに苦しんだとき口に含んでその場を凌ぐため、梅酢に漬け込まれた千人針のオーラル・ヒストリーがある。 おおむね日露戦争くらいまで記録をさかのぼることのできる千人針習俗は、初期においては当局から非難される秘められた営みだったのが(千人針の祈りは最初期には徴兵忌避、その後「無事に帰還すること」に変容した。太平洋戦争後期の総力戦体制下ではひるがえって、〈銃後〉の結束を高めるため国家が推奨する活動となり、国防婦人会などを通して大量生産されるようになる。 ミクロ・レベルのナラティヴ/小さな祈り・善意/極小のマイクロモニュメントと、マクロ・レベルのナラティヴ/倫理規範/大規模モニュメントはいつでも対置されるわけではなく、連続するグラデーションの中に分かちがたく点在する。

広島での撮影終了

千人針のための映像作品、広島での撮影が無事終了しました。炎天下出演やご協力、取材いただいた皆様、そしてほとんどすべてのご縁を運んでくださった演劇家の土屋時子さん、たいへんありがとうございました。 2回目となるサウンド・エンジニア山﨑巌さんと映像作家・中川周さんとの協働は学ぶことが多し。そして『オシラ鏡』主演の高山君が、今回は助監督として活躍してくれました。 ・土屋時子さんの本『ヒロシマの『河』 〔劇作家・土屋清の青春群像劇〕』(藤原書店、2019) ・朝日新聞広島版『「千人針」テーマ 被服支廠で撮影 新井卓さん』 ・中国新聞『被服支廠戦時の記憶 映像監督新井さんが撮影』 ・毎日新聞『支局長からの手紙 場所の持つ力/広島』