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Thank you for visiting! Takashi Arai Studio is temporary in the process of renewal. The new site will be relaunched by June, 2017. 訪問ありがとうございます。本サイトはただいまリニューアル作業中です。2017年6月までには作業完了予定ですので、ぜひまたお立ち寄りください。 “Takashi Arai: Cent soleils” Galerie Camera Obscura/パリ写真月間 2017 2017年4月4日 – 5月27日 “Photobook Phenomenon” Centre de Cultura Contemporània, バルセロナ 2017年3月17日-8月27日 “THE POWER OF IMAGES: MAST Collection. An iconic selection of photographs on industry and work” MAST, Bologna May 3 - Sep 24, 2017 –『ナショナルジオグラフィック日本版』3月号・特集 –『現代詩手帖』シリーズ・エッセイ「陽の光あるうちに」(1年間の表紙作品/散文連載) –『図書』1-3月号 「新しいモニュメントの到来のために」(全3回連載)全国書店で無料配布中 – Web版『水牛のように』連載中

一昨日2月26日、横浜市民ギャラリーあざみ野での個展「Bright was the Morning ― ある明るい朝に」が無事、終了しました。 これまで、国内の展示は活動の一端を少しずつ見せる規模/形式でしたが、今回は、各シリーズがネットワークされた状態で提示できる、初めての好機になりました。 ご来場いただいた皆様、学芸員の天野太郎さんや対談をご一緒した写真家の石川真生さんはもちろんのこと、横浜市民ギャラリーあざみ野スタッフ、また作品制作に協力いただいた数えきれない程の皆様に、心から感謝いたします。 今回あらためて確かめたことは、一つの展示空間は、固有の時間と場所と人々に属していて二度と再現できない、ということです。だから視覚美術の展覧会であっても、結局のところ、その場で体験しなければとらえることのできない時間芸術なのだと思います。 [メディア掲載] – マグカル「19 世紀の技法「ダゲレオタイプ」で写す日常と現実、未来」(齊藤真菜さん) – 毎日新聞『「新井卓 ある明るい朝に」 写真の中の「時間」』(高橋咲子さん) – 朝日新聞「(つくる・かたる)時間を凝縮し写す「鏡」新井卓@横浜」(丸山ひかりさん) – 神奈川新聞「若者たちから未来を予見 写真家・新井卓 会場で体験して」

A Maquette for T-33A, National Museum of US Air Force, Dayton, Ohio. 2014

百の太陽を探して 北アメリカ(七)デイトンの亡霊たち/前編 新井卓   (『小さな雑誌』81号(2015年)より転載) 二〇一四年秋、東京からオハイオ州デイトンへ飛んだ。暦が一日戻って、アメリカに入国したのは九月十一日だった。 空港でレンタカーを拾って、ライト=パターソン空軍基地へ。ハイウェイに沿って、ぽつりぽつりと星条旗が翻っているのが遠くまで見え、そのどれもが9.11を悼んで半旗になっている。秋の淡い青空の下で、街はこうべを垂れ祈っているのか、半分眠っているのだろうか。 デイトンはマイアミ・ヴァレイの中心都市で、ライト兄弟の出生地として知られている。丘がちな土地に街区と農地が平坦に拓かれていて、中心都市とはいっても、これといった産業もないのどかな街である。 街の何分の一かを占める空軍基地の一角に、世界最大の航空博物館、国立アメリカ空軍博物館が置かれている。その三六〇機を超える膨大なコレクションの中に、B-29重爆撃機・通称<ボックスカー>があった。 一九四五年八月九日未明、機長のチャールズ・W・スウィーニー少佐率いる乗組員は<ボックスカー>でティニアンを出発、長崎上空で午前一〇時五八分(*1)に原爆<ファットマン>を投下した。 二〇一一年の福島から時間の糸を逆に手繰って、長崎の時計の次にたどりついた遺物(モニュメント)が、この<ボックスカー>だった。この爆撃機を多視点のダゲレオタイプで撮影することが、今回の旅の目的である。 デイトン滞在にあてた一週間は毎日、開館から閉館まで空軍博物館で過ごした。 館のコレクションは時代毎に分けられ、それぞれ一つの巨大格納庫に陳列されている。ライト兄弟のミリタリー・フライヤー、カプロニのCa3木製爆撃機に始まり、両大戦を経て冷戦時代へ──最後は円筒形の建屋(サイロ)に、アポロ計画の展示とともに、退役したICBM(大陸間弾道ミサイル)が並んでいた。サイロの漆黒の闇の中に数十メートルのICBMが何柱も屹立している姿は、あまりにも終末的な光景(アポカリプティク)だった。 戦慄し、わけもなく涙が出てくるのを押さられなかった。それがもし畏怖の念、というものならば、神や信仰という観念は、無用にされてしまったのだろう。ギリシャの神々の名前を冠された、これらの殺戮兵器によって。 ICBMのサイロから<ボックスカー>に戻ってくると、機首に描かれたポップなイラスト(ノーズ・アート)や昔のアメ車を思わせる流線型の機体はすっかりノスタルジックに見え、どこか微笑ましくさえあった。ICBMとB-29のあいだを往復しながら、何日も見続ける視線は銀色に輝く<ボックスカー>の表面を上滑るばかりだった。 沖縄をのぞけば、日本人の時計は敗戦の瞬間から止まっていたのかもしれない。 戦後七〇年という時間のあいだに、途切れることなく戦争はつづき、その度に、殺戮のテクノロジーは取りかえしのつかない程先に進んでしまったのだ。 ICBMの発射解除コードは、ながらく八桁の「ゼロ」だったという。〇〇〇〇〇〇〇〇……どこまでもつづくゼロは、広島の、長崎の、死者たちの時間なのか。あるいは空の千の太陽のごとく輝けるヴィシュヌの降臨によって、ついに諸世界が回収されるという、来たるべきその日の神話とでもいうのだろうか。(*2) *1 ボックスカーに同乗した原爆取扱責任者アツシュワースの記録による。 *2 インド叙事詩『マハーバーラタ』中の『バカヴァット・ギーター』(神の歌)マンハッタン計画を指揮した物理学者、ロバート・オッペンハイマーが度々引用している。 T-33Aジェット練習機のマケット、国立アメリカ空軍博物館、デイトン、オハイオ州 銀板写真(ダゲレオタイプ)、7×18cm、2014

連載/続「百の太陽を探して」#5

長崎/広島(五)四十九の爆心地(グラウンド・ゼロ) 新井卓 (『小さな雑誌』80号(2015年2月号)より転載) 川崎の自宅から長崎へは、東名を抜けて大阪南港まで辿り着き、そこから一晩かけてフェリーで新門司港へ、さらに高速を数時間という道のりである。帰路はいつも、鳴門海峡を渡って山陽道で岡山方面へ。瀬戸内を見て回りたいという気持ちもあったし、なによりその途中に、広島がある。二〇一四年三月、長崎で二週間の撮影を終えてから、ふたたび広島に向かった。 広島/長崎という二つの爆心地(グラウンド・ゼロ)は、記憶の地図の上に、それぞれ孤立した点としてプロットされている。だから、車で移動してみると、いつもその近さに驚かされる。 なぜ、広島と長崎だったのだろうか? 通常それは、当日の気象条件や爆撃機B29の航続距離などから説明されるのだが、それでも、うまくのみ込めない感覚が残る。それはたぶん、二つの都市があまりにも近く、そして東京からあまりにも遠いからだろう。原爆投下候補地としておぼろげに覚えていたのは、小倉、福岡、京都など。東日本は、東京は、目標から外されていたのだろうか? その答えは、広島平和記念資料館のパネルにあった。 長崎に投下された「ファットマン」は、爆弾中心のプルトニウムを周囲から瞬時に圧縮して臨界を引き起こす、爆縮方式(インプロージョン・タイプ)の原爆である。この大型爆弾を高々度から精確に投下するためには、空中特性の改良や投下訓練が必要とされた。そのために製造された模擬爆弾が、通称「パンプキン爆弾」である。パンプキン爆弾は形状も重量もファットマンとまったく同じように作られていて、高性能炸薬が装填されていた。 パンプキン爆弾はマンハッタン計画の一部であり、第五〇九混成部隊の極秘任務だったので、戦後、日本の市民グループがその事実を突き止めるまで、知られざる存在だった。日本に投下されたパンプキン爆弾は四十九発。東京、名古屋、川崎、いわきをはじめとする日本全土の重要都市が投下候補地点だった。それらのすべての地点が、いわば「未遂の爆心地」である。 広島平和資料館には市街地のジオラマがあり、その中央に、赤いつややかな球体が浮かんでいた。それは、原爆の火球をあらわしていた。人の手によって造り出された、高度五百七十メートルの太陽──それを間近で直視したものはだれもいない。目撃者たちはみな、光を見たと思う間もなく燃え尽きてしまったのだから。(したがって、他者の苦痛を語りうるかどうかを「当事者性」という都合のよい言葉ではかることはできない──なぜなら本当の当事者とは死者たちであり、残されたものたちはみな、少なからず出来事の周縁を生きているのだから。) 翌朝、高校の数学を苦労して思い出しながら、市内各所からみた火球の方位と視角度を計算した。計算が正しければ、たとえば午後四時八分に比治山公園から西北西の空を見あげると、沈みゆく太陽と原爆の火球の位置がぴったり重なるはずだった。 正午から銀板写真(ダゲレオタイプ)を撮影する準備にとりかかり、それから比治山に登った。まだ随分時間があったので、カメラを三脚に据えてゆっくり待つことにした。見晴台のベンチでは、年老いた母親と娘が編み物をしている。年配の女性が自転車を押して、公園の猫たちにえさをやりに来た。 彼岸の太陽は、刻々と、苛烈な早さで地平線に落ちつつあった。三月二十三日午後四時八分。やがてその時は来たが、なにもおこらなかった。一秒間の露光。目の前の光景は変わらず、木々は燃え上がらず、母娘はのんびりと編み物をつづけていた。爆風に叩きつけられることもなく、鳥たちは群れて家路につこうとしていた。──いまはまだ、とりあえず、いまのところは……。 49 Ground Zeros After shooting for two weeks in Nagasaki, I drove towards Okayama on the Sanyo-do highway, crossing the Naruto Strait. I was curious to look around the Setouchi area, and, more than anything, Hiroshima was on the way. The two ground zeros, Hiroshima and Nagasaki, are plotted isolated on my memory map, so I’m …

── 感覚の新しい時代が始まったのです。・・・チェルノブイリは、私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです。私たちの前にあるのはだれにとっても新しい現実です。・・・何度もこんな気がしました。私は未来のことを書き記している……。 スベトラーナ・アレクシエービッチ著『チェルノブイリの祈り 未来の物語』松本妙子[訳](岩波現代文庫, 2011)

Japan Society Gallery in New York will present IN THE WAKE: Japanese Photographers Respond to 3/11 opening on Friday, March 11, 2016, five years to the day since an enormous earthquake and tsunami struck northeast Japan, devastating coastal regions and setting off nuclear power plant failure. On view through June 12, 2016, the exhibition is the centerpiece of an institution-wide observance of what was the most widely photographed catastrophe in …

I delightfully announce I just received the 41st Kimura Ihei Award, for my first monograph MONUMENTS (PGI, 2015)! I wish to express my warmest thanks to my friends and everyone who have been continuously supported and encouraged me. Facing current retrogression of the freedom of expression in Japan, I continue working harder than before together with my dearest friends, in search of a new language of art, for our contemporaries …

[23-12-2010] 落差のない滝 午後から明治大学生田キャンパスにて「光、礫、水」展のための作業。8×10のモノクロに変なことをして10カットほど撮影する。 懸案だったオブジェの配置は、予想したよりもいい感じに異様な雰囲気になった。今回の展示は、きわめて精密かつシリアスな悪戯です。   [22-12-2010] 青森、ルワンダ、斑女 冬至になった。すべてが透明な音をたてて、陽に転回しはじめる季節。 先週末、京都造形芸術大学/時代の精神展『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』を見るため日帰りで(というか飲みすぎて朝帰りになってしまったけど)京都へ。 すでに写真集で見た写真とテキストではあったが、天井の高いルクソール宮殿みたいな空間に、等間隔に立ち並んだ大判のポートレイトは圧巻だった。ポートレイトの横には小さなパネルが掛けられていて、ひとつひとつ女たちのモノローグが印刷されている。写真を見る、という行為そのものを変容させる展示だと感じた。 一組のテクストと写真を見るためには、およそ10分くらいの時間がかかる。ふつうの写真の展示空間では、身体の横方向への移動が、見る体験の「浅さ」の感覚をつくりだしているが、この展示には深さと高さがある。林立するモノリス、沈黙のうちに充満した言葉の群れ。素晴らしい仕事だと思った。 先週は京都行きを挟んで、目黒アピア40で念願の友川カズキのライヴ、喜多流の能楽定期公演「斑女」「黒塚」など。   [21-12-2010] Reunion 週末、久しぶりにいつもの「大樽」で写真学校の同級生と集まった。 ぜんぜん変わらない。ほんとはみんな変わりつつあるはずだから、変わらないという感覚は不思議だ。おなじ時間を共有し、貧乏とか恥ずかしいことを共有している友だちの間には「無条件」という接頭辞がいつもついてくる。だから会うとついつい飲みすぎる。   [15-12-2010] 礫 一月の展示で使う石を切ってもらうため、近所の石材工場を訪ねた。入口からは見えなかった巨大な空間にたっぷりと外光が注いでいて、もうもうと立ちこめる石の粉塵が、神話的な感じを漂わせている。 私が住んでいる川崎中部の府中街道沿いは、高度成長期時代に中小工業の生産拠点として発展した。ずいぶん数は減ったが、今でもすこし路地を入るとその風景が残っている。 スレート色の工場には人の気配が満ちていて、その目立たないひとつひとつの箱の中で、ネジや金型、板バネ、シートベルト、ふとんの中綿や人工衛星のモーターなどが作られている。それらは決して人の眼に触れることなく、私たちの知らない流通網を辿って、既製品の見えない内奥へと送り届けられるものたちだ。 既製品でつくられた世界は多様に見えて、実は有限のバリエーションで区切られた密室にひとしい。いまのところ生活の安定とか向上とは、世界の貧困さを許容すること(受動的に、または半ば積極的に)によって達成されている。 ものを作ることは、物質と交感することである。 みかけの「貧困さ」の方へ。手の貧弱さから始めるということ。   [28-11-2010] 栄力丸ダゲレオタイプ/複製プロジェクト(1) 修復家の三木麻里さんと待ち合わせ、川崎市市民ミュージアムへ。 m-miki来年の展覧会に向けて、川崎市所蔵・栄力丸ダゲレオタイプ2点のレプリカ製作の作業が始まった。三木さんが細心の注意を払いながらハウジングを開け、私は作業過程ごとの写真を記録。最後に、レプリカを作る際のポジとして使用する画像を撮影した。 これから三木さんはハウジングの修復とレプリカ用の新たなハウジングの製作、私は銀板へ密着焼きするためのデジタル・ネガ(正確にはポジ像)のテスト制作に移る。 160年の時を超えてハウジングから取り出されたダゲレオタイプは、経年による部分的なターニッシュ(変色)によって、宝石のオパールのような虹色になっていた。写された男たちは不安とも安堵ともつかない曖昧な表情を漂わせ、それでも確固とした尊厳に支えられているように見える。ミニアチュアの魔術によって封じ込められた魂が、銀板のなかでひっそりと息づいているみたいだ。 高解像度で入力したデジタル画像を観察していて、ひとつ発見があった。男の目に、黒い台形のかたちが見えその周りにハイライトが入っている。斜めに作り付けられたガラスの天窓と明るい採光のダゲレオタイプ・スタジオ、そのシルエットだろうか? 眼の中の影像に、ひとつの時空が凝集している。それは艶やかなブラックホールのように、裏返しに世界を包摂している。 追記)栄力丸の船員は52日間の漂流ののち「オークランド号」に救出され、その後別の船上で撮影された、との記録もあるので、シルエットは船上の何かを映し出しているのかも知れない。   [27-11-2010] ルワンダ・ジェノサイドから生まれて 午前中、明治大学生田キャンパスにて1月の展示の打ち合わせ。 今回はダゲレオタイプ、映像、そして立体による展示を構成する予定で、そのなかでも重要なのがギャラリーに隣接する図書館書架を使用した”Replacement”と名付けたインスタレーションだ。諸事情あって実現への道のりは険しそうだけれど、この要素を欠いた展示は成立しない。なんとか理解を得られることを祈るのみ。 夜はAKAAKA舎へジョナサン・トーゴヴニク氏と竹内万里子さんによるトークを聴きにいく。写真集『ルワンダ・ジェノサイドから生まれて』日本語版の刊行と現在京都造形大で行われている個展に合わせ、写真家が来日した。感動的なプレゼンテーションだった。 初めてこの写真集のオリジナル版を目にしたとき、端正な装丁、ルワンダの母子をシンプルにとらえたポートレイトと、原題の”Intended Consequences: Rwandan Children Born of Rape”というダイレクトに暴力の存在を告げるタイトルとがうまく頭の中で一致しなくて、混乱したのを覚えている。 トーゴヴニクが撮影したモデルは、ルワンダで90年代初頭に起きたジェノサイドの渦中、民兵によって暴力や性的暴行を受けた女性たちと、そのレイプの結果生まれた子供たちである。写真家は、それぞれの女性と数時間にわたる対話を行い、その後彼女たちが暮らす家の近隣で撮影を行った。母子はそれぞれにカメラをまっすぐに見つめ、無数の言葉が凝縮されたような沈黙の表情のなかに、静かに佇んでいる。 母子はとてもよく似ている。まさにその似ている、という事実が、引き裂かれるような複雑な感情を呼び起こす。何組かのインタビューを読み、ポートレイトを見ていけば、はじめは不意に叫びたくなるかも知れない。しかし写真家は決して叫んだり、声高に訴えたりすることなく、低い声で語り、距離を計り、見つめ耳を傾けつづける。その仕方は、とても強い。穏やかに語りかける「声」の写真集。   [19-11-2010] Lights ジョエル・マイエロヴィッツみたいな夕暮れ。 空気が、固くて透明になっている。   [03-11-2010] fluxsus 先週末、遠野への旅から戻った。 今回は遠野市西部の山地、とくに古生代の残丘(モナドノック)である早池峰南麓をくり返し訪ね、十数点の「滝」のダゲレオタイプを撮影した。 滝とは固有の<もの>ではなく、現象/状態を表すことばであり実体がない。宇宙が生成してから消滅するまで、決して繰り返されることのない水の落下、その反映が銀板のおもてに降り積もり、ただ一片の積分された映像が顕われる。 遠野から持ち帰ったダゲレオタイプは、来年1月14日から24日にかけて、明治大学生田キャンパス図書館、および併設された展示空間のGallery Zeroにて行われる個展で発表します。 https://www.lib.meiji.ac.jp/about/exhibition_zero/index.html このプロジェクトは、滝という現象と、鏡面の映り込みによって常に生成流転するダゲレオタイプの映像に注目したまったく新しい展示になるはずです。 — 今度の旅では遠野の色々な人のご厚意に触れ、全力で制作に集中することができました。特に作業場所を快く提供してくださった早池峰ふるさと学校の佐々木さん夫妻、藤井さん、数々のレアな情報を教えていただいた民宿「御伽屋」のご主人に心から感謝します。   [24-10-2010] …

[25-11-2009] 5 days in SF 今日がサンフランシスコ滞在最後の日、明日の便で日本に帰る。 滞在中は、作家でKala art Instituteのスタッフでもある服部さん濱中さんご夫妻にとてもご親切にしていただいて、オークランド周辺の制作の現場を垣間見ることができた。Kalaはハインツのケチャップ工場を改築したスタジオと、少し離れた場所にあるギャラリーを保有するアートセンターで、レジデンシープログラムやフェローシップの公募等も行っている。西側の窓から差し込む光が、とてもきれいな場所だった。 写真家の兼子裕代さんにも同じ日にミッション16丁目駅で再開、今日は兼子さんのご紹介でRayko Photo Centerという写真センターを訪問。 Raykoはひとつの倉庫を丸々ギャラリーと暗室、ビューイングルームに作り替えた巨大な空間で、中判から8×10までの引き伸ばし機が多数並び、40×50インチのタイプCプリントも一時間14ドルの貸し暗室で制作することができる。ティンタイプを使う作家で半年前からダゲレオタイプも始めたというMichaelさんとひとしきり話す。   [21-11-2009] SF 昨日の夜、サンフランシスコ着。仕事の撮影は順調に終了、空港の手荷物預かりで行方不明になっていた三脚も見つかった(アメリカ中を二日間、ぐるぐる回っていたらしい)。 西の空に細い三日月がかかっていて、その下に真珠のベッドのような街区が広がっている。飛行機が着陸する瞬間、丘の向こうに緑色の火球が落ちるのがみえた。 ホテルに荷物を置き、とりあえず近くのタイ料理屋へ。とても空腹だったので麺と春巻き、それにカレーを注文。ダシ文化に飢えていたのでしみじみうまい。 滞在中はSFMOMA、Kala Art Institute、そのほかのギャラリーや写真センターを見て回る予定。とても楽しみです。   [20-11-2009] 荒れ野 セドナから荒れ野を200マイルほど走り、ホホバ・プランテーションへ。 古生代の山脈に囲まれた砂漠の中央部で、わずかな灌木と、祈る人の形をしたサボテンのほか、ここにはなにもない。完全な静寂、無限の深度をもった空。   [17-11-2009] Sedona, Arizona シカゴ経由、サウスウェスト航空でフェニックスへ。 飛行機から見下ろすと、赤茶けた荒れ野に整然と区画が敷かれていて、キラキラした無数の家並みが、まばらに、そしてどこまでもつづいている。地平線の向こうまでつづくばかでかいフリーウェイの上を、たくさんのトレーラーが、ゆっくりと、蟻のように這いすすんでいく。火星のコロニーみたいだ。スタニスワフ・レムの小説を思いだす。 フェニックスに一泊してから、北へ3時間ほど走り、お昼ごろセドナ着。 今回の旅は、長いことお世話になっている化粧品会社の依頼を受けアリゾナ一帯を撮影することが目的だ。滞在は4日間、その間にセドナ周辺、プランテーションなどを廻って、週末にサンフランシスコに抜ける予定。 ここは空気が薄く、太陽が黒い。   [16-11-2009] 別れ フィラデルフィアでの展覧会が無事開き、金曜日のアーティストトークを終えて、気がつくともう出発の日を迎えていた。 昨日までの雨はきれいに上がり、うす水色の空にパラフィン紙にような巻雲が幾筋か浮かんでいる。早朝、Mの運転する車でハイウェイを走っていると、抑えがたくセンチメンタルな気分がわき起こってきてどうしようもなくなる。 春のフィラデルフィアにはじまって、日高山脈での山籠り、ブリ、そしてふたたびフィラデルフィアへ。今年は旅の多い一年だった、まるで写真のお遍路みたいだった。 Project Bashoの周辺ではほんとうに数多くの素晴らしい人たちに出会った。何よりもフィラデルフィア滞在の機会と縁をもたらしてくれた伊藤剛君に心から感謝します。   [05-11-2009] フィラデルフィア、3日目 2日月曜に、シカゴ経由でフィラデルフィアに到着。 Project Bashoの伊藤剛君のスタジオにお世話になり、いま今週末のワークショップと翌週からの個展に向けて準備をしています。天気はこのところ快晴、今日はベッケレル現像のテスト、DIルームではアシスタントのタイラー君が展示用の大判インクジェットプリントを出力中。 今度のワークショップは二日半の日程なので、比較的取り組みやすいベッケレル現像と、水銀と臭素を使うマルチコート・ダゲレオタイプ両方をレクチャーする予定。 いまのところワークショップの申し込みは6人、コロラド、DCあたりからもわざわざ参加する方がいるらしいので、それぞれ最低1枚は満足のいくダゲレオタイプを持ち帰ってもらえるようにしたい。 ベッケレル現像ダゲレオタイプは、深いブルーで薄もやがかかったような印象の画像に仕上がる。去年から水銀現像だけに取り組んできたので、久しぶりに見ると、ベッケレルの夢見るような映像も悪くないなと思う。   [01-11-2009] Solo Exhibition: “Flawless Lakes” Takashi Arai’s first US show, “Flawless Lakes” features 20 daguerreotypes plus …